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油江天神社

古社とおぼしき油の天神さん

油江天神社

読み方 あぶらえ-てんじん-しゃ
所在地 名古屋市中村区中村町2丁目10 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十一等級
祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
アクセス 地下鉄東山線「中村日赤駅」から徒歩約5分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 由緒ありげで特徴的な神社だけど、伝わっていることは少ない。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「『国内神名帳』に従三位油江天神とあり、『参考本国神名帳集説』には一楊荘上中村に鎮座ましますと記す。上古は国司長官の着任に際し自ら申告し、常に国司は朔幣を奉る神社である。医道の祖神で万病に効く御神徳あり特に歯痛に霊験高く、人々油を供えて祈願する」

『尾張国内神名帳』は平安時代末に成立したとされる尾張国の神社一覧で、『参考本国神名帳集説』は江戸時代中期(序文1707年/1734年出版)に天野信景が出した尾張国の神社研究の書のことを指す。
『尾張国内神名帳』にはいくつかの写本があり、伴信友校訂本や国府宮威徳院蔵本には油江天神とあり、天王坊本には縣天神とある。
『延喜式』神名帳(927年)の尾張国愛智郡にはそれに相当するような神社はない。
 上古(じょうこ/645年の大化の改新まで)に国司長官が挨拶に来て朔幣を奉ったというのは、同じ話が土江神社にも伝わっている。土江神社は入江天神として『尾張国内神名帳』に載っている社と考えられている。
 現在の日比津から東の広井村にかけての一帯をかつては泥津(ひぢつ)とも呼んでいたということからしても、土江、泥江、入江、油江などといった社名や地名が無関係とは思えない。
 土江神社と油江神社は同じく少彦名(スクナヒコナ)を祭神としている。

 『尾張名所図会』(1844年)はこんなふうに書いている。
「油江天神社 同村の東二町ばかりにあり。『本国帳』に従三位油江天神とある是なり。今土人油天神といふ」
『尾張志』(1844年)はもう少し詳しい。
「油江天神社 上中村にまして今は油の天神と称す本国帳に愛智郡従一位油江天神(元亀本正四位とし明応本従三位上とし貞治本従一位とし一古本に従三位とす)とある是也 油江はここの地名なれとも今は廃れて此社号にのみ残れり」
 従一位としている『尾張国神名帳』があるくらいだから古くて格式のある神社と考えていい。
 油江はこのあたりの地名で、江戸時代にはすでに廃れていたようだ。

『尾張国神社考』の中で津田正生はこう書いている。
「従三位油江天神 一本無此社又一本作泥江 又【集説云】上中村天神歟(村東二町餘)油は泥の誤字なる歟、或は重出歟 【正生曰】愛智郡の本國帳は、尤誤おほければ然るべくおほゆ」
 油は泥の書き間違いではないかというのだけど、油と泥を間違えるだろうかと考えるとやや疑問だ。ただ、『尾張国内神名帳』の愛智郡の神社は写本によってずいぶん違っているので、写し間違いというのは考えられる。
 同書の【河原神社天神】の項では【近藤利昌曰】として「上中村天神はその俤なるべし」と書いている。
「俤」は面影(おもかげ)のことなのだけど、「弟」という意味もあり、それでいくと、河原天神(川原神社)から勧請したということを言いたいのだろうか。上中村に別の河原天神があったという説もある。

 それにしても、油江神社も土江神社もどうしてスクナヒコナを祀るとしているのだろう。
 ここは長らく泥地もしくは湿地だった土地で、北を庄内川が流れている。縄文時代は海の底だった。
 中村は古くからの集落で、村の中央を鎌倉街道が通っていた。油江天神が集落の誕生とともあったとするとかなりの古社ということになる。
 そういった事情を考えると、スクナヒコナというのはどうもピンと来ない。一社だけでなく近くにあるもう一社もそうだからなおさらだ。
『愛知縣神社名鑑』が書いている「医道の祖神で万病に効く御神徳あり特に歯痛に霊験高く、人々油を供えて祈願する」という風習は社名の油から来る連想のようなものだろうけど、何らかの根拠がなければそういう話は出てこない。意外と古くから始まったものかもしれない。

『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』(1822年)を見ると、天神と八幡二社は長円寺の持分となっている。
 長円寺は南北朝時代の至徳年間(1384-1386年)に蜂須賀蓮花寺の順誉上人が建てた福生院が始まりで、1617年(元和3年)に名古屋城下の袋町に移され、寛永年間(1624-1643年)に跡地に建てられた寺だ。
 長円寺は加藤屋敷に現存している(地図)。
 中村は上の切と下の切に分かれていて、上中村と下中村と呼ばれた。江戸時代は上の切は妙行寺の支配で、下の切が長円寺の支配だった。

 今昔マップで明治以降の変遷を辿ってみる。
 明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるのは田んぼの横の空白地となっている。その頃の状況はよく分からないのだけど、林中にでも鎮座していただろうか。もともとこの場所ではなかった可能性も考えられる。
 明治34年(1901年)に中村公園ができて、昭和初期にこのあたり一帯が区画整理されて家も建ち始めた。
 1932年(昭和7年)の地図を見ると、現在中村日赤病院がある場所が池になっており、鳥居マークが描かれている。
 旭遊郭を中村に移転するとき、移転先の湿地帯を埋めるための土を取ったところが池になり、遊里ヶ池と呼ばれていた。中之島と弁天島があったから、鳥居マークは弁天島で祀られていた弁天だろうか。
 1937-1938年の地図で中村日赤が現れ、鳥居マークが消える。中村日赤ができたのが1937年(昭和12年)のことだ。
 初めて現在地に鳥居マークが描かれるのは、1968-1973年の地図からだ。
 現在は住宅地の中に埋もれるようにして神社はある。 

 いつ誰がこの地に建てたのか、祭神は最初からスクナヒコナだったのか、油江は泥江の間違いなのかそうじゃないのか、土江神社との関連はあるのかないのか。分からないことだらけだ。
 従一位までになった神社であればもっと古式ゆかしい風格を称えていてもいい。しかし、この神社はそんなそぶりはまったく見せない。本当に立派な人間ほど威張らないように立派な神社も威張ったりしないということかもしれない。

 

作成日 2017.5.26(最終更新日 2019.4.21)

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