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可睡齋秋葉社

秋葉信仰の歴史をおさらいする

可睡齋秋葉社

読み方 かすいさい-あきば-しゃ
所在地 名古屋市瑞穂区惣作町3丁目 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明(三尺坊大権現)
アクセス 地下鉄名城線「妙音通」から徒歩約10分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 名古屋にも秋葉社はたくさんあるけど、可睡齋(かすいさい)を表立って名乗っている神社はここくらいかもしれない。
 可睡齋というのは萬松山可睡齋(web)という曹洞宗の寺の名前だ。
 いい機会なので、秋葉山や秋葉信仰についてざっとおさらいをしてみたいと思う。

 静岡県浜松市天竜区(旧周智郡春野町)にある秋葉山(あきはさん/866m)は古くから霊山として信仰の対象になっていた。
 もともとは大己貴命(オオナムチ)を祀っていたという話もある。
 奈良時代初期の718年、行基が秋葉山に大登山霊雲院という修験道場を開いた。
 それから60年後の778年、信濃国戸隠(長野県長野市)に三尺坊が生まれる。母が観音菩薩を念じて産まれたことから観音の生まれ変わりとされた神童で、幼い頃から越後国栃尾(新潟県長岡市)の蔵王権現堂で修業をし、27歳の時に不動明王を感得して、迦楼羅天に変身したという。
 迦楼羅天(かるらてん)というのはインド神話のカルーダが仏教に取り込まれたもので、体は人間で顔は鳥、クチバシと翼を持っていて自由に空を飛べるとされる。日本では烏天狗にたとえられる。
 三尺坊(さんじゃくぼう)とは、長岡蔵王権現堂の子院12坊の1つで、そこの主となったことから来ている。
 三尺坊は白狐に乗って各地を巡り、809年に秋葉山に降り立ったという。
 そこで秋葉三尺坊大権現となり、秋葉山の烏天狗として知られるようになる。
 寺名を秋葉寺(しゅうようじ)としたのはこのときからとされる。
 時は流れて室町時代中期の永享年間(1429-1441年)、尾張国の圓通寺(web)に修行僧に姿を変えて現れた。
 圓通寺は熱田社(熱田神宮/web)の神宮寺として尾張氏が建立し、平安時代に空海が訪れ十一面観音像を彫って堂を建てたともされる古刹だ。
 三尺坊はこの寺で修業をし、ついには鎮防火燭の秘法を得たという。そして、本来の姿を現し、寺の鎮護を誓ったと伝わる。
 三尺坊大権現が火伏せの神とされるのはこのとき以降のことで、庶民の間で秋葉信仰が流行するのは江戸時代に入ってからのことだ。
 江戸は火事が多かったこともあり、特に中期以降に秋葉信仰が流行り、講を作ってさかんに秋葉山詣でをするようになった。村々に多くの秋葉権現も建てられることになる。
 ただ、このときの信仰の対象は、三尺坊大権現であり、火の神カグツチではないということを認識しておく必要がある。

 萬松山可睡齋は、静岡県袋井市久能に、室町時代前期の1394年、久野城主・久野宗隆の援助を受けて大路一遵が建立したとされる。開山は恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)。曹洞宗の禅寺だ。
 11代住職の仙麟等膳(せんりんとうぜん)は、武田家に攻められて危うくなっていた家康とその父をかくまったことがあり、浜松城主になった家康が久しぶりに和尚を訪ねると、宴の席で居眠りを始めて、それを見た家康は、いいから寝かせておけといい、以降、可睡和尚と呼ばれ、寺の名前も可睡齋になったとされる。
 江戸時代は隆盛を極め、東海大僧録として三河国、遠江国、駿河国、伊豆国の曹洞宗の寺院を配下に収め、権威を誇ったという。
 大登山秋葉寺は江戸時代初めに寺内部の混乱もあって可睡齋の末寺になっていた。

 江戸時代までの状況をまとめると、秋葉山に三尺坊大権現を祀る大登山秋葉寺があり、山頂に秋葉権現を祀る社があり、麓に可睡齋があった。
 状況が大きく変わったのは明治元年(1868年)の神仏分離令と、続く明治5年の修験宗廃止令、それらに伴う廃仏毀釈運動だった。
 秋葉寺にとっては状況も悪かった。寺の中でモメごとが起きたり、住職が病死したりして、無檀無住を理由に廃寺となり、三尺坊の像など仏具一切は可睡齋に移されることになった。
 山頂の秋葉社は寺か神社かの話し合いが持たれ、火伏せの神であるカグツチ(火之火具土神)を祀る秋葉神社とすることが決まった。
 もともと秋葉信仰とは関係がなかった禅寺の可睡齋が秋葉信仰の総本山となったのは、こういう経緯があったためだ。
 その後、秋葉寺は多くの信徒が願い出て、明治13年(1880年)に再建の許可が下りて復活した。
 現在でも秋葉山の札には烏天狗の姿をした三尺坊大権現が描かれている。
 背中には大きな翼が生え、右手には剣、左手には索を持ち、口は鳥のようなクチバシになっており、白狐に乗っている。火炎を背負っているので一見すると不動明王のようでもある。
 秋葉山を信仰している人たちの中には、今でもしっかり三尺坊大権現が息づいているといえそうだ。

 こうした状況を踏まえると、現在の秋葉社には3つの系統があることになる。
 ひとつが三尺坊大権現の秋葉寺、もうひとつが可睡齋、あとのひとつは神道系の秋葉社からの勧請だ。
 名古屋の場合は、熱田の圓通寺が絡んでくるので、4系統というべきかもしれない。
 通常、一般の参拝客はどの秋葉社がどの系統なのかは分からない。氏子さんには伝わっているだろうか。
 火祭り神事の秋葉祭を見ると神式か仏式かの違いくらいは分かるかもしれない。
 秋葉祭は、三尺坊の命日とされる12月16日に行われる。

 そういうわけで、瑞穂区惣作町の可睡齋秋葉社は、名前の通り、可睡齋系ということになる。可睡齋が秋葉信仰の総本山になったのは明治以降のことだから、この神社の創建も明治以降だろう。
 神社の前の細い道は旧街道の面影を残している。このあたりを鎌倉街道が通っていたというから、その一部かもしれない。
 少し南の井戸田には、行基が開いた薬師寺に由来する古刹、龍泉寺(りょうせんじ)もある。

 秋葉社を見たときに、これはどの系統の秋葉社だろうと思いを巡らせてみるのも面白いんじゃないかと思う。

 

作成日 2017.9.26(最終更新日 2019.3.29)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

秋葉寺から可睡齋へという流れを汲む可睡齋秋葉社

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