昭和35年(1960年)に創建された新しい神社だ。 平和が丘という街自体が新しいので、街ができて人口が増えて神社を建てたという流れだったのだろう。 境内の由緒書きには川合康雄という人物が中心となって街の氏神として伊勢のアマテラスを祀ることにしたと書かれている。 細かいところだけど、町名は平和が丘で、神社名は平和ヶ丘になっている。特にこだわりはなく混在しているのかもしれない。
実質的な創建者である川合康雄は近くの瑞光寺(地図 / web)も建てている。 瑞光寺の建立が昭和45年(1970年)というから平和ヶ丘神社の方が先だ。 本職は実業家で、戦後復興の精神的な支えとして信州の善光寺(web)を信仰しており、瑞光寺は信州善光寺の一光三尊阿弥陀如来佛の写しを本尊としているとのことだ。瑞光寺は単立寺院となっている。
今昔マップで明治以降の変遷を見ると、明治、大正期は完全に山の上で何もない。とても人の住むような土地ではなかったことが分かる。古くはこのあたりを蓬莱谷(よもぎだに)などと呼んでいた。今もよもぎ台などの地名が残る。 昭和7年(1932年)の地図からようやく道路が現れる。その頃はまだ北の香流川まで直接つながっておらず、猫ヶ洞池を迂回して西の日暹寺(日泰寺/web)や本山方面と結んでいる。シャム国から贈られた仏舎利を納めるために日暹寺を建立したのは明治37年(1904年)のことだった。 戦後復興の一環として、名古屋市は市内の寺の境内にある墓地をどこか一ヶ所にまとめる計画を打ち出した。それが今の平和公園墓地で、昭和22年(1947年)から始まり約10年をかけて18万基余りの墓を移転させた。 平和公園の周辺が宅地化されたのはこの頃のことで、平和が丘もそのうちのひとつだった。神社が建てられた昭和35年は平和が丘の街ができて民家も多くなった頃のことだろう。 ちなみに、名古屋オリンピックが開催直前までいった1988年(昭和63年)。そのメイン会場となる予定だったのがこの平和公園だった。無数の墓石に囲まれたオリンピックなど前代未聞だっただろうから、やはり見てみたかった。 平和が丘の町名が成立したのは昭和51年(1976年)で、平和公園にちなんで名づけられたものだ。平和公園と名づけられる以前はこのあたり一帯を平和が丘と呼んでいたというから、平和が丘の方が先ともいえる。 東邦高校は東邦商業学校として1923年(大正12年)に創立した実業高校で、赤萩町から平和が丘に全面移転してきたのは1971年(昭和46年)のことだった。男女共学になったのは1985年(昭和60年)だから比較的最近のことだ。 東邦学園大学が開学したのは2001年(平成13年)で、現在は愛知東邦大学と大学名を変更している。
平和ヶ丘神社は平成12年(2000年)に境内の外周土留が老朽化して危険ということで全面的に境内の整備と建物の再建を行った。 黒龍と刻んだ自然石を祀っているけどいつからのものかは分からない。 11月の大祭の他に、毎月第一日曜日に月次祭を行っているというからきちんとしている。 神社の大祭にあわせて平和が丘秋まつりも開催されていて、子供たちが獅子頭を先頭に揃いの法被を着て町内を練り歩くそうだ。 こういうお祭りができるのも神社があるおかげということもあるので、それだけでも平和ヶ丘神社は地域の役に立っているといえる。 歴史が浅くても機能している神社もあれば、歴史は古くても事実上機能停止しているような神社もある。すべての神社を等しく大事にできればそれが理想的ではあるのだけれど。
作成日 2018.6.20(最終更新日 2019.2.1)
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