江戸時代の嶋田村の中心神社だったことは間違いないのだけど、少し分からないところがある。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「大正十五年4月15日、御器所町字天神山鎮座の無格社天神社と天白村大字植田字中邸鎮座の無格社秋葉社を移転合祀し島田神社と改称し、昭和20年10月10日、村社に列格し、同年10月16日、供進指定社となる。昭和50年10月社殿を近代建築により改造する」 いきなり話が大正時代に他の神社が合祀されたところから始まっていて戸惑う。創建について何も触れていないのは異例だ。
この神社の本体は熊野権現だ。それは間違いないはずなのだけど、問題はいつ誰が建てたかということだ。 南北朝時代の貞治年間(1362-1367年)に、尾張の守護大名だった斯波高経(しば たかつね)が、ここに住んでいた一族の牧氏に島田城を築城させ、その鬼門除けとして熊野権現を勧請して祀ったという話がある。 これは本当だろうか。 確かにあり得る話ではあるのだけど、南北朝時代の城の守りとして熊野権現を選ぶだろうかと考えるとしっくりこない。もし斯波高経が島田城だけでなく神社創建も命じたとすれば、斯波高経が熊野権現を信仰していたということになるだろうか。あるいは、神社創建は牧氏によるものだったのか。
江戸期の書の嶋田村の項を見るとそれぞれこうなっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「嶋田村 枝郷 菅田 社 六ヶ所 内 熊野権現 明神 若宮 山之神三社 当村山伏 和合院持分 社内六反六歩 前々除」
『尾張徇行記』(1822年) 「社六区 此内熊野権現、明神、若宮、山神三区社内六反六畝前々除トアリ 庄屋書上ニ、熊野権現祠境内二反御除地、是ハ本郷氏神也、八幡祠境内一反七畝八歩御除地、是ハ菅田島ノ氏神也、神明祠境内一反四畝二十歩御除地、是ハ池場島氏神也、八幡祠境内二十八歩御除地、是ハ池場控ナリ、山神祠境内一畝御除地、是ハ池場控ナリ、山神祠境内八畝二十四歩御除地、是ハ池場島控ナリ、石薬師境内三畝二十七歩御除地、是ハ池場島控なり 八幡祠・若宮祠・熊野祠・神明祠府志ニ載レリ」
『尾張志』(1844年) 「熊野社 熊野櫲樟日ノ命(クマヌクスヒ)事解之男ノ神(コトサカノヲ)速玉之男ノ神(ハヤタマノヲ)三坐を祭るといふ當村上郷下郷の本居神也 境内に末社秋葉のやしろあり 神明社 支邑池塲の氏神なり 境内に秋葉の社あり 天神社 神明社より南の方にあり 少彦名命を祭るといへり 若宮八幡社 仁徳天皇をまつれり 山神ノ社 三所」
嶋田村の本居神が熊野権現で、支村の菅田に八幡(菅田神社)があり、池場の氏神が神明社だったことが分かる。それぞれの地区に山神社もあった。 前々除となっているから、1608年の備前検地以前にあった神社ということになる。 『寛文村々覚書』では和合院の持分となっており、当村山伏とあるから、修験の寺が持っていたようだけど、和合院についてはいつ誰が建ててその後どうなったのか調べがつかなかった。今の天白区に和合院という寺はない。 江戸期の書から熊野権現をいつ誰が祀ったのかを知ることはできない。
嶋田村の地名の由来については、上の田という意味の植田に対して下の田という意味で下田と名づけられたものが転じたという説と、嶋つ田から来ているという説がある。 『小治田之真清水』(尾張名所図会附録で1853年頃完成)は、「そのかみ此のあたりハ成海・佐良の辺とり引きつつきあたる入り江の潦地にて今ノ立田輪中の如く、其の内の高き地を撰び民居をしめて、四方の水田ヲ船に乗りて作りありける故、島田と名づけしが、其地いと広くて上下の二県に分れし也」と書いている。 天白川流域のこのあたりは起伏のある地形で、高所に家を建て、低地を水田にして、周囲を堤防で囲い、村人は船で田んぼを行き来していたという。その様子から島つ田と呼ばれ、嶋田の村名になったのだと。 平安時代の歌に「作良人、その舟ちぢめ島つ田を十町作れるを見て」というのがあり、西の笠寺台地の作良(南区桜)地区から村人が船に乗ってこのあたりで稲作をしていたことが分かる。 嶋田の地名は戦国時代から一般的に使われるようになったようだけど、集落としてはかなり古い可能性が考えられる。 そうであるならば、熊野権現を祀ったのは室町時代の斯波高経として、それ以前に嶋田の集落では別の神を祀っていたはずだ。それが明神と若宮かもしれない。 明神は後に天神として少彦名命を祀るとしているけど、これがかなり古い可能性がある。 若宮は後の時代に若宮八幡として仁徳天皇を祀るとしたところが多いけど、本来は不慮の死を遂げた人間が祟らないように祀ったものを若宮と呼んでいた。 ここで浮上するのが嶋田臣(しまだのおみ)の存在だ。 神武天皇の皇子、神八井耳命(かんやいみみのみこと)を祖とする多氏(おおうじ)の後裔に仲臣子上(なかとみのこかみ)という人物がいる。成務天皇のとき、仲臣子上は嶋田県にいた悪い神を退治して嶋田県と嶋田臣の姓を賜ったと『新撰姓氏録』にある。この嶋田県というのは上下二県に分かれていてかなり広かったようで、天白区の嶋田もその一部だったと『天白区の歴史』は書いている。 嶋田というと、菅原道真との関係も連想する。 道真の師匠は嶋田忠臣(しまだ の ただおみ)という人で、平安時代前期の貴族であり、この時代を代表する漢詩の詩人だった。道真は島田忠臣の娘・宣来子(のぶきこ)と結婚しているから、舅でもある。 この嶋田忠臣の祖父が嶋田清田(しまだ の きよた)という尾張国の士族で、都に登って官僚となり、伊賀守にまでなった立身出世の人だった。 嶋田忠臣と嶋田村が直接関係していることはないとしても、嶋田つながりの縁は感じられる。島田神社では道真を祀る天神社がある。 いずれにしても、平安時代に嶋田にすでに集落があったとすれば何らかの神を祀っていたはずで、それが明神、若宮だったということは考えられるのではないか。 熊野権現が嶋田村の氏神とされたのは、斯波高経が島田城を築いて以降のことのように思う。
斯波高経は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての守護大名だ。 最初、足利尊氏の挙兵に従って戦い、北朝の司令官となり、南朝の新田義貞を討ったことで名を挙げた。 尊氏と直義との兄弟げんかともいうべき観応の擾乱では、あっちに付き、こちらに寝返りを繰り返して、最高権力者に上り詰めたものの、最後は失脚して越前で病没した(享年63)。 系図を辿ると八幡太郎こと源義家に辿り着く源氏の武士ということになる。広くいうと足利尊氏(高氏)や新田義貞なども同族で、生まれが1305年だから足利尊氏と同い年だ。当初は高経も足利を名乗っていたとされる。 室町時代に斯波氏は三管領の筆頭となる。管領というのは幕府の政務一切を取り仕切る最高権力の職で、同じく管領の細川氏、畠山氏と交代で務めた。 斯波高経は同族の牧氏に島田城築城を命じたとされ、初代城主は牧顕朝と伝わる。創建年は不明ながら、斯波高経は1367年には失脚して追われる身となって越前で病死しているから、それ以前ということになるだろう。 1358年に足利尊氏が死去すると、斯波高経は頭を剃って道朝と称して2代将軍になった尊氏の息子・義詮の補佐役について実質的に幕府の実権を握ることになる。 その後、1362年に四男の義将を執事(管領)に就かせつつ、自身は裏に回って権力を握り続けた。斯波氏を名乗るようになったのは義将の代からともいう。 島田城築城は、この1362年以降、死去する1367年の間と考えていいだろうか。 政治情勢としては不安定な状態が続いていたとはいえ、尾張にどうして城が必要だったのか。城といっても戦国時代のような戦闘を前提とした城ではなく館城だっただろうけど、その時期どうしてこの地だったのか、そのあたりの事情はよく分からない。 斯波高経は尾張以外にも遠江と越前の守護も兼ねており、尾張だけが特別だったわけではない。 嶋田の地は年魚市潟(あゆちがた)沿いの鎌倉街道が通る交通の要衝で、そこの押さえが必要だという考えはあったのだろう。 熊野権現が島田城の守護のために建てられたというのであれば、創建時期は1362-1367年頃ということになりそうだ。 牧家の菩提寺で、現在は熊野権現に隣接している島田地蔵寺が建てられたのは1442年だった。建てたのは斯波高経の孫の樵山和尚(しょうざんおしょう)で、初め島田山広徳院と称した。 創建されたのは現在よりも北の天白川近くの街道沿いだったとされる。 その後、天白川の氾濫で流されたり、桶狭間の戦いのときに焼けたりして、牧家が再建に関わったと伝わる。 島田地蔵寺については以前ブログに書いた。 名古屋市天白の島田地蔵寺に歴史あり 牧氏については牧神社のページで書いている。
明治の神仏分離令では熊野社は島田地蔵寺と切り離された。 明治42年(1909年)、近隣の神明社、八幡社、天神社が合祀された。 黒石にあった山神社と天神社を合祀したとき、いったん黒石に移されて島田神社となっている。それが現在の菅田神社だと思うのだけど、確信が持てない。 大正12年(1923年)に今の場所に戻ったというのは、すべてが合体した島田神社から本郷の氏神だった熊野権現を取り戻したという理解でいいだろうか。 このとき元地に戻った熊野権現は熊野社とされ、合体した島田神社は菅田神社と改称している。 大正15年(1926年)、天神社と秋葉社を合祀して島田神社とした。
合祀と遷座と分離の経緯は以上のようなものだったと思う。 それよりも、熊野権現をいつ誰が建てたのかは分からずじまいなのが引っかかりとして残った。引き続き調査を続けたい。
作成日 2018.2.12(最終更新日 2019.2.7)
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