島田神社

斯波高経か牧氏が建てた熊野権現なのか

島田神社

読み方 しまだ-じんじゃ
所在地 名古屋市天白区島田3丁目301番地 地図
創建年 不明
社格等  指定村社・七等級
祭神 事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
外六柱
アクセス

・地下鉄鶴舞線「塩釜口駅」から徒歩約30分
・駐車場 あり(無料)

webサイト  
オススメ度

 かつての嶋田村の中心神社だったことは間違いないのだけど、よく分からないところがある神社だ。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「大正十五年4月15日、御器所町字天神山鎮座の無格社天神社と天白村大字植田字中邸鎮座の無格社秋葉社を移転合祀し島田神社と改称し、昭和20年10月10日、村社に列格し、同年10月16日、供進指定社となる。昭和50年10月社殿を近代建築により改造する」
 いきなり話が大正時代に合祀されたところから始まって何事かと思う。創建について何も触れていないのは珍しい。
 この神社に関しては情報が断片的で上手くつなげらないところがあって、愛知県神社庁の担当者はそのあたりをばっさり切り捨ててしまったのかもしれない。

 この神社の本体は熊野権現だ。それはたぶん間違いない。
 問題はいつ誰が建てたかということだ。
 室町時代前期の貞治年間(1362-1367年)に、尾張の守護大名だった斯波高経(しば たかつね)が、ここに住んでいた一族の牧氏に島田城を築城させ、その鬼門除けとして熊野権現を勧請して祀ったという話がある。
 これは本当だろうか。
 確かにあり得る話ではあるのだけど、室町時代前期の城の守りとして熊野権現を選ぶだろうかと考えるともうひとつしっくりこないものがある。それに、斯波氏もしくは牧氏と熊野権現との接点も見えない。

 江戸期の書の嶋田村の項を見るとそれぞれこうなっている。

『寛文村々覚書』

 嶋田村 枝郷 菅田
「社 六ヶ所 内 熊野権現 明神 若宮 山之神三社 当村山伏 和合院持分 社内六反六歩 前々除」

『尾張徇行記』

 嶋田村 八事庄
「社六区 此内熊野権現、明神、若宮、山神三区社内六反六畝前々除トアリ 庄屋書上ニ、熊野権現祠境内二反御除地、是ハ本郷氏神也、八幡祠境内一反七畝八歩御除地、是ハ菅田島ノ氏神也、神明祠境内一反四畝二十歩御除地、是ハ池場島氏神也、八幡祠境内二十八歩御除地、是ハ池場控ナリ、山神祠境内一畝御除地、是ハ池場控ナリ、山神祠境内八畝二十四歩御除地、是ハ池場島控ナリ、石薬師境内三畝二十七歩御除地、是ハ池場島控なり 八幡祠・若宮祠・熊野祠・神明祠府志ニ載レリ」

『尾張志』

 嶋田村
「熊野社 熊野櫲樟日ノ命(クマヌクスビ)事解之男ノ神(コトサカノヲ)速玉之男ノ神(ハヤタマノヲ)三坐を祭るといふ當村上郷下郷の本居神也 境内に末社秋葉のやしろあり
 神明社 支邑池塲の氏神なり 境内に秋葉の社あり
 天神社 神明社より南の方にあり 少彦名命を祭るといへり
 若宮八幡社 仁徳天皇をまつれり
 山神ノ社 三所」

 嶋田村全体の氏神がこの熊野権現(島田神社)で、支村の菅田に八幡社(若宮八幡/今の菅田神社)があり、池場というところの氏神が神明社だったということのようだ。それぞれの地区に山神社もあった。
 前々除となっているから、1608年の備前検地以前にあった神社ということになる。

 斯波高経は鎌倉時代後期から室町時代前期にかけての守護大名だ。
 生まれは1305年だから足利尊氏(高氏)と同い年ということになる。
 名門足利一族で、室町時代に斯波氏は三管領の筆頭となる。管領というのは幕府の政務一切を取り仕切る最高権力で、細川氏、畠山氏と交代で務めた。
 斯波高経が牧氏に島田城築城を命じたのが1362-1367年というから、高経は権力の座にいた晩年に当たる。1367年には失脚して追われる身となって越前で病死しているから(享年63)、それ以前ということになる。
 1360年代というと、南北朝時代はまだ続いているときだ(1336-1392年)。1358年に足利尊氏が死去すると、斯波高経は頭を剃って道朝と称して2代将軍になった尊氏の息子・義詮の補佐役について実質的に幕府の実権を握ることになった。
 その後、1362年に四男の義将を執事(管領)に就かせつつ、自身は裏に回って権力を握り続けた。
 島田城築城は、この1362年以降、死去する1367年の間ということになる。
 政治情勢としては不安定な状態が続いていたとはいえ、尾張にどうして城が必要だったのだろう。この頃、尾張で小さな戦でもあっただろうか。
 斯波高経は尾張と遠江と越前の守護も兼ねていた。
 島田の地は年魚市潟(あゆちがた)沿線の鎌倉街道が通る交通の要衝で、そこのおさえが必要だという考えはあったのだろう。
 本当に熊野権現が島田城の守護のために建てられたとしたならば、創建時期は1362-1367年頃ということになる。
 牧家の菩提寺で、かつては熊野権現に隣接していた島田地蔵寺が建てられたのは1442年とされる。建てたのは斯波高経の孫の樵山和尚(しょうざんおしょう)だった。
 それを思うと、熊野権現を創建したのは斯波高経か、命を受けた牧氏だったと考えよさそうではあるのだけど、熊野権現が先で、島田城が後だったという可能性も依然として残る。

 明治の神仏分離令では島田地蔵寺と切り離された。このとき熊野社に改称しているのではないかと思う。
 明治42年(1909年)、近隣の神明社、八幡社、天神社が合祀された。
 黒石にあった山神社と天神社を合祀したとき、いったん黒石に移されている。
 大正12年(1923年)に今の場所に戻った。
 大正15年(1926年)、天神社と秋葉社を合祀して島田神社に改称された。
 明治末の神社合祀政策で多くの熊野社が別の神社に合祀された中、ここは熊野社が本体として残った。もともと村の中心神社だったということがあったのだろう。
 名古屋に現存する熊野社としては、中村区の熊野社や中川区二女子の熊野社、南区呼続の熊野三社、守山区の熊野社がある。

 結局のところ、この熊野権現はいつ誰が建てたのかは分からずじまいだ。牧家に何か伝わっていないのだろうか。
 村の中心神社ですら詳しいことが伝わっていないことをあらめて実感する。同時に、記録に残しておくことの大事さを再認識する。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

天白区の島田神社を訪ねる

HOME 天白区

スポンサーリンク

Scroll Up