幕末の安政3年(1856年)に、名古屋末広町(中区)の若宮八幡社の神官・氷室長冬がこの地で新田開発を行い、その守り神として建てたのがこの若宮八幡社だと社伝はいう。 氷室(ひむろ)と呼ばれるこの場所をかつて山崎川が流れていた。その川跡に氷室長冬が新田を作ったので、そこは氷室新田と呼ばれた。 そのあたりの経緯について少し時間を戻して説明する必要がありそうだ。
江戸時代に入って新田開発が進むと、天白川の氾濫によって作物や人家に被害が出るようになったため、氾濫を防ぐために天白川と山崎川の間に水路を作った。1728年のことだ。 しかしこれが逆効果で、天白川の氾濫がおさまらなかっただけでなく山崎川まで氾濫を繰り返すようになったため、1741年(1742年とも)に水路は埋め戻された。 時は流れて1856年、氷室長冬がここに新田を作ることになり、山崎川は付け替えられることになる。 それまでの山崎川は国道1号線と交差する千竈通1交差点の北から西へ流れていて堀川に合流していた。それを南へ流れるように付け替えて現在の流れになった。 若宮八幡社があるあたりは川幅が180メートルほどあって一番広く、船だまりになっていたという。 その川跡に新田を作ることになったわけだけど、これが困難を極めたようだ。砂地で水田には向かず、年貢は40年間免除されたという。それは言葉を換えれば年貢を納められるくらいの収穫ができるまで40年かかったということだ。 そんな苦労をしてまで若宮八幡社の神官だった氷室長冬がこの場所に新田を作ったのは何故だったのか。たまたまこの土地の権利を得られたからなのか、何か別の理由があったのか。
氷室長冬は後醍醐天皇の血筋で、後醍醐天皇の子である良新親王が津島神社(web)の神職となって尾張国中島郡氷室村を領したことから氷室を名乗るようになったという。 それが江戸時代の末には尾張名古屋で若宮八幡社の神官になっていた。その間どういう経緯だったのかは分からない。 氷室家が津島神社の神官であったなら祀るのは牛頭天王でもよかったのだろうけど、長冬が若宮八幡社の神官なら若宮八幡社の分社を建てるのは不自然ではない。
この神社創建の流れはそういうことのようだ。 境内は古めかしくて趣があり、巨木が何本もあって、もっと古い歴史を持つ神社のように感じられた。 本社の隣には稲荷社があり、氷室大明神の幟がある。 境内にある「氷室長冬開墾地の碑」は、明治37年(1904年)に長冬の孫の氷室伝蔵が建立したものだそうだ。 碑の裏には開拓に協力した10人の名前が刻まれている。 『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。豊田イの割の氏神として崇敬する。明治5年7月、村社に列格する」と簡単に書いている。 氷室長冬が新田開発の際に建てた神社という認識ではないのだろうか。
ここまで書いてきてなんだけど、神社側のこの説明にはどこか納得できないものを感じる。何か違うんじゃないかという気がしてならない。創建のいきさつが違うのか、氷室長冬が違っているのか。 実際にこの説明の通りで、私の中の違和感はただの勘違いかもしれないのだけれど。
作成日 2018.3.13(最終更新日 2019.8.25)
|