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神明社(六番)

新田の守り神だったのは遠くて近い昔のこと

六番神明社

読み方 しんめい-しゃ(ろくばん)
所在地 名古屋市熱田区六番3丁目7-10 地図
創建年 1810年(江戸時代後期)
旧社格・等級等 村社・十四等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセス 地下鉄名港線「六番町駅」から徒歩約4分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 熱田区六番町にある神明社。
 江戸時代前期まで、このあたりは海の底だった。
 熱田社(熱田神宮/web)がある宮宿と桑名宿との間は東海道でありながら海路だった。七里の渡しと呼ばれたように、約30キロを船で渡していた。
 この航路は陸に近いコースと沖合のコースの2つがあった。干潮に近いときは陸沿いに行けないため大回りしなければならなかったからだ。
 いずれにしても、熱田と桑名の間の航路がほぼ直線上だったといえば、今はいかに陸地が増えたか分かるというものだ。
 江戸時代に入ると、遠浅の海は干拓によって次々と陸地化され、新田が開発された。

 1646年、尾張藩初代藩主の義直は熱田の海を干拓して新田開発することを命じた。
 干拓というのは、土を運んできて埋め立てるのではなく、沖に堤防を造って海の水をせき止め、干上がらせることをいう。埋め立てに比べるとお金はかからないものの、土の塩分がなくなるまで時間がかかるという欠点があった。しかも、大雨や台風が来れば堤防は簡単に決壊して海水に浸かることも少なくなかった。
 藩主導による最初の新田開発は、3年の歳月をかけて1649年に完成した。
 その新田は御新田(ごしんでん)、後に熱田新田と呼ばれることになる。
 現在の熱田区の西、中川区、港区にまたがる広大な土地で、一番から三十三番までの番割に区分けされ、それぞれ何番割というふうに呼んでいた。
 六番町はかつての六番割であり、この神明社は六番割・七番割の氏神だった。
 番割には神社の他に観音堂があった。西国三十三ヵ所にならったもので、番割観音といっていた。観音堂は一部が現存し、番割の神社は今もほとんど残った。

『尾張志』(1844年)は、「神明ノ社 熱田新田六七番わりの氏神也」と書いている。
『尾張徇行記』(1822年)に六番割神明社の記述は見つけられなかった。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は文化七庚午年(1810)正月十三日と伝える。昔から六番町の氏神として崇敬あつく、明治5年7月、村社に列格する。大正3年11月8日大正天皇御大典記念に際し本殿を造営。昭和38年明治維新百年記念事業に社務所を改築。昭和51年社殿を改修した」
 1810年というと、熱田新田完成の160年後なのだけど、それまで六番割に神社はなかったということだろうか。それがどうしてこの時期に神社を建てようということになったのだろう。それだけ集落の村人が増えたということだろうか。
『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は勧請の年月は詳らかではないと書いているから、実際はもっと早い段階で建てられたかもしれない。

 御大典(ごたいてん)というのは、天皇の即位の礼から大嘗祭(だいじょうさい)にいたる一連の儀式のことで、御大礼(ごたいれい)ともいわれる。
 神社にはよく「御大典記念」と刻まれた石碑などがあるから、目にすることも多い。
 大正天皇の御大典は、大正3年(1914年)に行われる予定が、昭憲皇太后の崩御を受け一年延期され、大正4年(1915年)年11月10日に京都御所紫宸殿(ししんでん)で行われた。
 六番の神明社は延期されずに大正3年に本殿の造営を行ったということのようだ。
「昭和38年明治維新百年記念事業に社務所を改築」というのはよく分からない。明治元年は1868年で、その百周年なら1968年だから、昭和43年だ。こちらは前倒しをしたということか。

 いい機会なので御大礼のことを少しだけ書いておこう。
 即位の礼(そくいのれい)は、天皇の践祚(せんそ/天子の位を受け継ぐこと)の後、皇位を継承したことを内外に示す儀典だ。
 それに続いて大嘗祭(おほにへまつり/だいじょうさい)が行われる。
 これは天皇が即位して初めて行う新嘗祭(にいなめさい)のこととされている。新嘗祭は毎年行われる収穫祭で、大嘗祭はその最初のものというのが公に言われていることだ。
 しかし、これは秘中の秘とされ、実際にどういうことが行われているかは天皇しか知らないことになっている
 その秘儀に迫ろうという試みは昔からやられていて、一部は外に漏れている。それはまるで悪魔崇拝の儀式のようだという人もいる。
 昔ならともかく明治以降の近代はそんなことないだろうと思うだろうけど、今上天皇も、平成2年(1990年)11月12日の即位の礼の後、11月22日から23日に大嘗祭を行っている。
 夜を徹して行われているそうだから、2、3時間で終わるような形式的なものではなさそうだ。収穫された新穀を供えて一緒に食するだけのはずもない。
 どうやら新天皇が前天皇から魂を受け継ぐ儀式らしい。それを行って初めて天皇はアラビトガミ(現人神)として真の天皇になれるのだとか。
 大嘗祭を最初に本格的に行ったのは天武天皇とされる。天武天皇の大嘗祭(新嘗祭)については守山区の斎穂社のところで少し書いた。
 平安時代まで大がかりに行われた後、室町時代から戦国時代は朝廷の窮乏や戦乱によって中断を余儀なくされ、東山天皇(在位1687- 1709年)のときに復活、また中断を挟み、桜町天皇(在位1735-1747年)以降、現在まで続いている。
 大嘗祭は国事行為ではなく皇室の行事のため、内閣の承認は必要ない。総理大臣でも何が行われているか知らないはずだ。

 境内入り口近くに、子守弘法堂がある。
 少し離れたところには六・七番の観音堂も残っている。
 六番町の上空を新幹線の高架と高速道路の高架が交差して縦断している。海だった頃の面影はもちろん残っておらず、見渡す限り田畑だった頃の風景を想像するのさえ難しい。江戸時代のことだから、それほど大昔というわけでもないのに。
 神社は歴史の変遷の記憶を受け継ぐものだということをあらためて思うのだった。

 

作成日 2017.10.1(最終更新日 2019.9.10)

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