探していた秋葉神社のシャッターが閉まっていて驚いた。 シャッターが閉まってる? 神社のシャッターが閉まっているという表現は聞いたことがないし、自分で使うのも初めてだ。しかし、そうとしか言いようがない。 奥行きの浅い小屋の中に大きめの神棚が台座に載っており、御神燈と書かれた提灯が下がっている。探してた秋葉神社はここに間違いないようだけど、これを神社と呼んでいいかどうかは微妙だ。 シャッターはガレージ用のものだろうか。中は見えるけど手は入らない。賽銭箱はあるから小銭を投げ入れることはできる。 呼続3丁目の公民館のテラスに乗った秋葉神社も驚いたけど、これはこれで別の驚きがあった。こういうスタイルもありなのかと。 神社に興味を持って道を歩いていなければ前を通りかかっても気づかないかもしれない。この神社はやってるかやってないかでいえばやってないと判断するだろう。この神社は閉まってるなと。 おそらく祭礼のときなどは開くのだと思うけど、普段はこのように閉まっているのだろう。一般参拝客に対しては開かれていないとみるべきかもしれない。
『南区の神社を巡る』によると、昭和18年に出征する兵士たちを送り出すためと無事の帰還を願って建てられたという。 それが秋葉神社だったというのが時代を表しているといえるだろうか。このあたりの感覚というのはこの時代を生きた人にしか分からないのだろう。
幟立てに「昭和18年2月 八紘一宇」と刻まれている。八紘一宇(はっこういちう)といっても戦後生まれの人間にとってはピンと来ない。太平洋戦争のときに合い言葉のように使われた言葉で、『日本書紀』から来ている。 初代天皇とされる神武天皇が大和の橿原(かしはら)に都を定めたときの詔勅に「兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」があり、これが元になっている。 六合(くにのうち)を兼ねてもって都を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)となす、亦(また)可(よ)からずや。 これは神武天皇の理想を掲げたもので、天地四方八方の果てにいたるまでこの世界に生きるすべての人々が一軒の家に暮らすような平和な都を作るといった宣言だった。 本来は「八紘為宇」だったものを「八紘一宇」に変えて、当時の政府や軍部はこれを政治利用した。中国や東南アジアへの侵略はひとつの理想世界を作るためのものであるとして、八紘一宇をスローガンとして掲げた。 この言葉を作ったのは大正時代の仏教運動家の田中智学で、最初に政府が公式に使ったのは近衛内閣のときだった。その後、政府のスローガンとして使われるようになる。 昭和15年は皇紀二千六百年に当たり、各地で記念式典などが行われた。太平洋戦争が泥沼化して国威昂揚の必要に迫られた時期でもある。 八紘一宇は流行語となり、戦時中はある意味で国民の心の支えとなる言葉でもあった。戦後は軍国主義を表す言葉として公文書に使うことは禁止とされた。 八紘一宇の名のもとに他国への侵略が正当化されるわけではないとはいえ、八紘為宇の精神まで否定されるものではない。 聖徳太子の「和をもって尊しとなす」に通じるもので、すべてをひとつにするということではなくて、違った者同士が互いに協調することが大切だという考え方だ。 八紘一宇にしても、皇紀にしても、軍国主義や国家主義などと決めつけて頭ごなしに否定するのではなくて、本来の意味を正しく理解して受け止めるべきものだろう。 神道や神社が戦争に利用されたという一面があるにしても、だからといって毛嫌いしてしまうのはもったいない。 この秋葉神社が出征兵士を送り出すために建てられたものだと知っている人は少ないだろう。それでも今もこうして町中にあって、半ば閉店状態とはいえ、町と人を見守ってくれている。 その歳月は重いし、意味も小さくない。
作成日 2018.3.9(最終更新日 2019.8.24)
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