熱田神宮(web)の元宮ともいうべき神社で、乎止与命(オトヨ)とその息子の建稲種命、妹の宮簀媛命(ミヤズヒメ)が暮らしていた館の跡に、ミヤズヒメを祀ったのが始まり、というのが一般的な認識となっている。特に大きな謎もなく、創建のいきさつもはっきりしている神社だと思っている人も多いかもしれない。 しかし、いろいろ調べたり、いろんな人がいろんなことを書いているのを読んでいくうちに、本当にそうだろうかという疑問がわいてきた。この物語は実はもっと複雑なものなのではないか。
まず分からないのは、ヤマトタケルとミヤズヒメの出会いと別れまでどれくらいの年月が過ぎたのか、という点だ。 具体的に言うと、ミヤズヒメは何歳のときにヤマトタケルと出会い、何歳のときに再会して、何歳のときに別れたのか。そして、何歳のときに熱田に草薙剣を祀る社を建て、何歳のときに死んだのか。 ヤマトタケルが伊吹山の神に負けて大和へ戻る途中、伊勢の能褒野(のぼの)で死んだのが30歳とされている。 現実に起こった出来事と物語をごっちゃにしてはいけないのは承知しているのだけど、物語の設定としてミヤズヒメの年齢問題というのは重要な点なので、ある程度はっきりさせておく必要がある。10代前半と10代後半とでは微妙に意味が違うし、10代と20代とでは更に大きな違いがある。 現在、大高と呼ばれる土地は、当時、火高火上(ほだかひかみ)と呼ばれ、館があった場所は火上山(ひかみやま)の上だった(現在の元宮がある場所/地図)。 問題は、この館がオトヨのものだったのか、タケイナダネのものだったのか、ミヤズヒメのものだったのか、という点だ。 ヤマトタケルが東征のため最初に尾張を訪れたときの当主がオトヨだったのかタケイナダネだったのかで話は違ってくる。それは、そのときのミヤズヒメの年齢にも関係してくることだ。 父親の家に息子と娘が一緒に暮らすというのは不自然ではないだろうけど、そのときのタケイナダネの年齢によっては問題となる。 タケイナダネはヤマトタケル東征に副将軍として従って戦いを終えたのち、尾張に戻る途中の駿河の海に落ちて死んだとされる。そのタケイナダネには玉姫(丹羽氏の祖・大荒田命(オオアラタノミコト)の娘)という妃がいて、二人の間には尻綱根命(シリツナネ)をはじめとして二男四女がいたことになっているから、尾張を出立した時点でけっこうな年齢だ。少なくとも20代前半の青年ではない。8人家族の長男が、その年まで父親の館で一緒に暮らしていたと考えるのは不自然だ。 タケイナダネの本拠地は知多の師崎や羽豆だったという話があり、ヤマトタケル東征のときは海から行ったともいうから、大高から南の海辺に進出して独立していたと考えられる。 火上山の館にオトヨやマシキトベの影はなく、当主がタケイナダネでないとしたら、独身のミヤズヒメがひとりで暮らしていたということだろうか。当時においてそれが自然なことだったのか不自然なことだったのかは分からない。 ヤマトタケルの東征は数ヶ月とかの話ではなく、数年に渡ったものだっただろうから、その間にミヤズヒメも年を取る。 オトヨは初代尾張国造とされている。国造(くにのみやつこ)というのは地方長官のような役職で、言うまでもなくそれは中央から与えられるものだ。ヤマトタケルが尾張国にやってきて、オトヨもしくはタケイナダネが館に招いて歓待したということは、尾張氏が大和の支配下に入ったことを暗示している。ヤマトタケルは天皇の皇子だ。その意味は小さくない。 ヤマトタケルがオトヨの娘を見初めて妃にしたという話を、単純な恋物語と捉えていいとは思えない。物語として美化された裏にはもっと政治的な別の側面があったに違いない。
『古事記』、『日本書紀』、『熱田神宮縁起』では、ヤマトタケルとミヤズヒメの物語にそれぞれいくつかの食い違いがある。 『古事記』では、「尾張國造の祖、美夜受比賣の家に入り」、「婚ひせむと思ほししかども、また還り上らむ時に婚ひせむと」思って東に向かい、荒ぶる神や従わない人々を征服して、再び尾張に戻ってみたら、ミヤズヒメは生理中でがっかりしつつ、ふたりは歌を詠み交わし、ミヤズヒメが大丈夫というのでそのまま交わり、草薙剣をミヤズヒメの元に置いて伊吹山の神を退治しに向かったとしている。 ヤマトタケルが入った家はオトヨでもタケイナダネのものでもなくミヤズヒメのもので、ミヤズヒメを尾張国造といっている。 行くときに立ち寄った際はふたりは交わらず、帰ってきてから結ばれ、記述上では一夜妻的なニュアンスになっている。しかもそれが生理中だったというのだ。何故、わざわざそんなことを書く必要があったのか。 『日本書紀』では、行きに尾張に寄ったという記述はなく、東征の帰りに尾張を訪れてミヤズヒメと結婚して、しばらく留まったとしている。生理中云々という話も出てこない。 その後、近江の五十葺山(伊吹山)で荒ぶる神が暴れているという話を聞いたヤマトタケルは、草薙剣を置いたまま歩いて向かい、神にやられて、いったん尾張に戻ってきたとしている。しかし、ミヤズヒメのところには寄らず、伊勢に向かって命を落としたとする。 尾張に戻ってきていながらミヤズヒメに会わなかったとしているのは何を言いたかったのだろう。 『尾張国熱田太神宮縁記』では、行き道でタケイナダネの館に立ち寄って、ミヤズヒメを見初めてふたりは交わり、東征を終えて戻ってきてしばらく滞在したとしている。 その後、草薙剣を置いて大和に戻る途中、伊吹山で病気になって能褒野で死んだのだとする。 草薙剣を祀る社を火上山の地に建てて、のちに熱田社を創建して草薙剣を移した云々という氷上姉子神社の縁起も、この書が元ネタのようだ。ただ、書かれたのは鎌倉時代初期ということで、後世の創作や脚色が加えられている可能性がある。
登場人物たちの年齢問題とともにもうひとつ重要な点が他の妃と子供のことだ。 何故、ミヤズヒメとヤマトタケルの間には子供がいないのか? 実際にいなかったんだから仕方がないといえばそれまでなのだけど、物語上としても子供がいなかったという点は無視できないのではないか。 『古事記』は、ミヤズヒメが生理中だったということをどうしてわざわざ書いたのか。生理中に交わったから子供がいないのだということを言いたかったのか、もっと別のことを暗に言っているのか。 古代において、女性の月経をどういうものと考えていたのかということがある。穢れ(ケガレ)と見ていたという考え方もあるだろうけど、月経の間は神と交わっている期間だから人は交わってはいけないという考え方もあったようだ。 ヤマトタケルはタブーを犯したから神通力を失って伊吹山で命を落とすことになったのだと『古事記』は言いたかったのかもしれない。 だとすると、ミヤズヒメというのは単なるオトヨの娘で、恋する乙女といった存在ではないということになるのではないか。あえて言い切ってしまうと、ミヤズヒメは巫女だったのだろう。 古代において、男性が政治を担当して、その対となる女性が祭祀を司るというのが定番スタイルだった。その法則に当てはめると、尾張の政治を担当していたのがタケイナダネで、祭祀担当がミヤズヒメだったのだろう。ふたりは兄と妹かもしれないし違うかもしれない。 そこにヤマトタケルが割り込む格好で入ってきた。問題が起きないはずがない。 更に草薙剣が絡んでくる。何故、ヤマトタケルは草薙剣を置いていったのか。草薙剣は元を辿れば、スサノオがヤマタノオロチを退治して手に入れたもので、アマテラスに献上され、ニニギが降臨したときに授けられ、伊勢の神宮でヤマトヒメが祀り、東征に向かうヤマトタケルに渡されたものだ。ヤマトタケルも一時的に借りただけで、正当な所有者とはいえない。なにしろ天皇即位に関わってくる三種の神器のひとつなのだ。通常であれば天皇でもない皇子が軽々しく持ち出せるものではない。 ヤマトタケル亡き後、何故天皇は草薙剣を尾張氏の元にとどめ置いたまま取り返そうとしなかったのか。のちに盗難事件が起こって天皇家に戻り、再び熱田に返されることになるのだけど、そのあたりについては八剣宮のところで書いた。
話を戻すと、ヤマトタケルにはミヤズヒメの他にも妃がいて、その間に何人かの子供がいる。 両道入姫(フタジノイリヒメ)との間にはのちに仲哀天皇となる皇子がいたし、東征の途中で出会った弟橘比売(オトタチバナヒメ)との間にも若建王(ワカタケル)がいた。その他、数人の妃との間にも子供がいたことになっている。 その中で、ミヤズヒメにだけ子供がいないとした理由は何だったのか。 ヤマトタケルの物語は複数人を総合して生み出された架空の人物像という説はもっともなのだけど、東征の物語だけをとってみれば、そこにはある種のリアリティや一貫性といったものがある。元になった筋書きがあったはずだ。 妃のひとり、オトタチバナヒメは、荒れる海を前に進めなくなったヤマトタケルのために自ら海に入って海神の怒りを鎮めたとされている。オトタチバナはヤマトタケルを救えたのに、ミヤズヒメはどうして救えなかったのか。 この物語の意図するところはどこにあったのか。
氷上姉子神社の「姉子」は、ミヤズヒメのことだとされる。姉子は一般的に、夫のいない少女のことという。姉子がミヤズヒメのこととする根拠としてこんな歌がある。 「年魚市潟(あゆちがた) 火上姉子は 我れ来むと 床去るらむや あはれ姉子を」 『尾張国熱田大神宮縁起』にあるもので、ヤマトタケルが東征の帰り道に、甲斐国の坂折宮でミヤズヒメを想って歌ったとされるものだ。 『尾張国地名考』の中で津田正生はこの歌をはっきり偽作と言っている。「古調に似て古調ならず」と。 私もこの説に賛同する。はっきり言って格調がなさ過ぎる。もっと言えば下手すぎる。 成海神社の縁起にまつわる歌でヤマトタケルが歌ったとされる、 「奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛」 (鳴海浦を見やれば遠し火高地にこの夕潮に 渡らへむかも) と比べても格調の違いは明らかだ。「奈留美良乎」の歌もヤマトタケルが歌ったものとは限らないとしても、「年魚市潟」の歌はいけない。表現が直接的すぎる上に、どこか他人事めいている。これは当人ではなく第三者が歌った可能性が高い。 姉子が夫のいない少女の意味だとすればそれはおかしなことだし、そもそも愛おしい人を姉子呼ばわりもしないだろう。 「姉子の歌」が偽作だとすれば、姉子=ミヤズヒメという前提は崩れたも同然だ。姉子は巫女のことだとする説を私も信じる。
ヤマトタケルが置いていった草薙剣を祀るために火高の火上山にミヤズヒメが建てた社が熱田神宮の始まりで(113年)、ミヤズヒメが亡くなった後、ミヤズヒメを祀る社を建てたのが氷上姉子神社の始まり(195年)という筋書きをどこまで信じればいいだろう。 ミヤズヒメは年老いてきていつまでも草薙剣を自分が祀っていられないということで、占いをしたら剣を祀る場所は熱田がいいと出たのでそこで祀るようになったというのが熱田神宮創建の話として信じられている。 熱田神宮で祀られる熱田大神の正体とは何かという話を始めると長くなるのでここではしない。 氷上姉子神社で祀られているのはミヤズヒメかどうかといえば、ミヤズヒメ「も」祀られているとは思う。 ただ、ミヤズヒメを祀る神社として氷上姉子神社が創建されたという説には疑いが残る。 火上山の上にはミヤズヒメの館があって、ミヤズヒメは何かを祀っていたのだろう。それが草薙剣だったのか、別の神だったのかは分からない。ミヤズヒメが巫女だったとすならば、祀っていた側がいつしか祀られる側になったというパターンはけっこうあることなので、それが後に氷上姉子神社になったというのは考えられる。 もし、氷上姉子神社がミヤズヒメを祀る神社として創建されたというのなら、その創建者は誰か、ということになる。 ミヤズヒメには子供がいない。オトヨもとっくいないし、タケイナダネも死んでいる。タケイナダネの息子・シリツナネは犬山の針綱神社で祀られ、その子供のオハリハリナネは天白区平針の針名神社の祭神となっている。火高の地から尾張氏は去った可能性が高い。熱田へ本拠を移し、そこから各地に散らばっていったのだろう。火高の里にはミヤズヒメだけが残ったということだろうか。
690年に氷上姉子神社は火上山から山を下りた東の現在地に移されたとされる。 690年というのは、持統天皇が即位した年だ。この意味は小さくない。持統天皇といえば、皇室の神をアマテラスと定めて伊勢の神宮(web)を整え、それまでの神道をいわば作り替えた天皇だ。『日本書紀』も、持統天皇と、時の権力者であった藤原不比等の意向が色濃く反映しているといわれる。 天武天皇の発案で681年に編さんが開始されるのも、完成を見ることなく天武天皇は686年にに没している。その後を受け継いだ持統天皇が大きく内容を書きかえさせたともいう。 もしかすると、氷上姉子神社の遷座についても持統天皇による何らかの働きかけがあったのかもしれない。なにしろヤマトタケルとその妃にまつわる神社だ。持統天皇にとって都合の悪いことがあれば、遷座とともに祭神を代えるなどということもあり得ない話ではない。 持統天皇は熱田の草薙剣を氷上姉子神社に移す計画を立てていたという話があり、亡くなる年(702年)に行った三河行幸の帰りに尾張に立ち寄って熱田社と氷上姉子神社に寄進したという伝承がある。それらは表立って語られることのないもので、何を意味しているのか。 奇妙なことに、氷上姉子神社の祭神は両道入姫(フタジノイリヒメ)という説がある。ヤマトタケルの妃で仲哀天皇を生んだというあの女性だ。どこをどう回って両道入姫の名前が出てきたのかは分からないのだけど、異説があるということは必ずしも氷上姉子神社の祭神がミヤズヒメとは限らないということだ。 姉子がミヤズヒメのこととされたのは平安期以降という話もある。
現在の社名である氷上姉子神社の氷上は、火の字を嫌って中世以降に氷にしたというのが一般的に言われている。 ただ、平安時代の『尾張国内神名帳』には「氷上姉子天神」とあるから、平安時代には氷上の表記があったことがはっきりしている。『延喜式』では火上を「ホノカミ」と読ませている。 火上と氷上の混在は平安期に起きたことで、それ以前は「日上」だったのではないかという話もある。そうであれば信仰対象は太陽神ということになるかもしれない。ミヤズヒメが巫女だったとしたら、その方がしっくりくる。 火高の「ホダカ」は、海人族で「穂高」の神を信仰する安曇族も連想される。安曇族は尾張氏の同族ともいう。当時、火高のすぐ目の前は年魚市潟と呼ばれる海だった。 もともとこの地を支配していたのはよそから来た海人族で、彼らが祖神を祀る神社だったものが、のちに尾張氏の支配下に入ることになり、ヤマトタケルとミヤズヒメの物語が後付けされた、ということだったということも考えられるだろうか。 そうなるとまったく夢のない話になってしまうのだけど、ひとつの根拠として、近くからは4世紀末に築造されたとされる兜山古墳(東海市名和町)や斎山稲荷神社古墳、名和古墳群(6世紀)といった小型の古墳しか見つかっていないということがある。火高の地を尾張氏の本拠とするには痕跡が少なすぎるのだ。
現在、本殿がある場所の横には名四国道と何本もの高速道路が走っていて、境内はうるさいったらない。途切れることなくごうごうと車の走行音が聞こえてくる。 『尾張名所図会』(1844年)がいうところの 「社地広大にして、千載の古木枝をたれ、深碧を畳みて、日影を漏さず。青蘇厚く地を封じ、ものさびたるさま、さながら神徳のほども推しはかられて、いと尊くぞ覚ゆる」という頃の面影はない。 氷上姉子神社の本当の姿を知りたければ元宮へ行かなければならない。山道を5分ほど登った先にミヤズヒメたちが暮らしていた屋敷があったとされる場所がある。 この空間に満ちているエネルギーは尋常なものではない。パワースポットなどという言葉が安っぽく思えるほど、この空気はただごとではない。あれをミヤズヒメひとりの残像思念といって片づけていいとは思えない。もっと大きな底知れない力が満ちている。 私がこの記事で呈した疑念などはほんの取るに足らない小さなもので、物語の本質はもっと複雑で深いに違いない。実際に何があったのかは分からないし、詮索するものではないのかもしれない。 ただひとつ確かなことは、元宮の場所がすごいということだ。哀しみでもなく、喜びでもなく、厳粛というのもちょっと違う。あの場所を形容する言葉を私は持たない。 氷上姉子神社を訪れた際は、忘れずに元宮も立ち寄って欲しいと思う。
作成日 2017.5.10(最終更新日 2019.4.1)
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