八事神社

時代は移り音聞山から御幸山へ

八事神社

読み方 やごと-じんじゃ
所在地 名古屋市天白区御幸山1339 地図
創建年 不明
社格等  村社・十等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
大伴武日命(おおとものたけひのみこと)
高峰大神(たかみねおおかみ?)
アクセス

・地下鉄鶴舞線「塩釜口駅」から徒歩約7分
・駐車場 あり(無料)

webサイト  
オススメ度

 天白区八事の神社というと安産祈願などで人気のある塩竈神社(web)の印象が強く、八事神社の存在感は薄い。ほとんど隣り合わせのように建っているにもかかわらず(入り口は遠い)、こちらを訪れる人は少ない。駐車場にある「ここは塩竈神社の駐車場ではありません」という注意書きがそれを物語っている。
 しかし、古さでいうとこちらの方がずっと古く、八事の氏神様といえば八事神社だ。もともとは正八幡宮という八幡神社だった。
 現在地に移されたのは明治3年(1870年)という情報と明治43年(1910年)という情報があって、どちらが正しいのか判断がつかない。
 いずれにしても明治43年に村内にあった一之御前社と高峯社を合祀したというのは間違いないようだ。そのとき社名を八事神社と改称した。
 そのあたりのいきさつを『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。

「創建は明らかではない。『尾張志』に”八幡社は八事村音聞山のふもとにあり。神功皇后、応神天皇、玉依姫三坐を祭るとよし社人を富田式部という。一の御前社は大伴武日命を祀り天文十五年(1546)以降の棟札あり”と明治5年、村社に列格する。明治43年4月22日。八事字宮脇四十番、村社、一の御前社と字八幡山六十五番、村社高峯社を本社に合祀し、八幡社を八事神社と改称した。大正12年10月6日、社殿を改築、昭和4年12月14日、社務所を新築する」

 現在の八事神社がある御幸山がかつての音聞山だ。明治23年(1890年)にこの地で陸軍の大演習が行われたとき明治天皇が統監したことから、御幸山(みゆきやま)と名を改めた(一部、地名として音聞山が残っている)。
 このあたり一帯は今でこそすっかり住宅地となっているけれど、江戸時代は尾張を代表する景勝地で、明治から昭和にかけては一大観光地だった。

『尾張志』の八事村の項にはこうある。
「八幡社 音聞山のふもとにありて神功皇后應神天皇玉依姫三坐を祭るよしいへり社人富田式部と云」

 江戸時代の八幡社では應神天皇だけでなく神功皇后と玉依姫も祀っていたようだ。
 神功皇后は應神天皇の母で、宇佐神宮(web)などでも祀られているのだけど、玉依姫をどうして八幡社で祀るのかはよく分からない。初代天皇の神武天皇の母親だからなのか、宇佐神宮で祀る比売大神のことなのか。
 現在の八事神社でこの二柱の神を祀っていない理由もよく分からない。

「一ノ御前社 八事村にあり祭神定かならし二坐のよしいへり天文十五年以降の棟札有り末社に八幡天神相殿社 山神社又修験金剛院あり」
「高峯社 祭神詳ならす 富士ノ社 音聞山にあり修験玉寶院 白山ノ社 山神社二所」

 一之御前社と高峯社については江戸時代ですでに祭神が分からなくなっていたようだ。
 富士社、白山社、山神社も、八事神社に移されて境内社となっている。

『尾張徇行記』は、『寛文村々覚書』に「八幡・高峯大明神・権現・白山・山神二社」と書かれているとし、『張州府志』に「神明祠在八事村、為氏神、又云王神 摂社 天神、山神 八事祠、高峯祠、白山祠倶在同村」とあると紹介している。
 江戸時代を通じて、八事村の神社の顔ぶれは変わらなかったようだ。

 一之御前社については、瑞穂区御劔町の一之御前社のところで少し書いた。
 熱田神宮(web)にある一之御前社から勧請したようなのだけど、詳しいことはよく分からない。
 もともと熱田社では大伴武日命(おおとものたけひのみこと)を祀っていたとされ、瑞穂区平郷町も八事村にあった一之御前社も祭神は大伴武日命としている。
 大伴武日は、大伴連(おおとものむらじ)の遠祖で、垂仁天皇時代には武渟川別(阿倍臣祖)、彦国葺(和珥臣祖)、大鹿島(中臣連祖)、十千根(物部連祖)らとともに五大夫(まえつきみ)に任じられ、祭祀を担当するように命じられている。
 景行天皇の時代にヤマトタケルの東征に吉備武彦(きびのたけひこ)と共に従い、蝦夷(えみし)を平定したことで、甲斐の酒折宮(web)で靭部(ゆきべ/ゆげいのとものお)を与えられたという。
 
靭部というのは弓矢を入れる道具を背負う兵士のことで、それによって朝廷の警護に当たったと考えられている。
 祭祀の氏族から軍事的な色合いを濃くしていったというのは物部氏に通じるものがある。
 熱田社で大伴武日を祀ったのは、ヤマトタケル東征の従者だったことからだろう。本社北西の一之御前社で大伴武日を、北東の龍神社に吉備武彦を祀っていた。これは本社に祀るヤマトタケルを守護するという意味合いだっただろうか。
 熱田神宮は長らく本社の北エリアを禁足地として一般公開していなかった。それが平成24年(2012年)から突然一般開放したのは何故なのか。現在の一之御前社は天照大神の荒霊を祀るとしている。

 高峯社についてはよく分からない。高峯大明神を祀っていたというから神仏習合している。
 高峯神社というと、兵庫県加西市にある高峯神社は「延喜式神名帳」に載る播磨国賀茂郡の崇健神社のこととされている。
 他にも高峯神社はいくつかあるようで、八事村にあった高峯神社がどこの系列のものなのかは調べがつかない。

 音聞山について『尾張志』はこんなふうに書いている。
八事村にあり此山は天道山高照寺の東南に一峯秀抜して眺望いはむかたなし南東の山の麓に八事村島田村つづきて天白川東より西南に流れ連綿たる事帯のことく西南に年魚市潟熱田の海渺々として晴れわたる日影には来よりつとへる千船ものふねの数も忽ちに読すへくやのこなたに眉引のことく黒みて横ぎれるは鳴海道の並松原なり嶺上にもと祠ありしが廃たる址に古松むらむら立てりこは名所ゆえ古詠あり」

 はるか年魚市潟(あゆちがた)の波音が聞こえるということで音聞山と呼ばれるようになったという。
 八事(やごと)の地名の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「岩之田(やがた)」が鎌倉から室町時代にかけて変化したものと書いている。
 石田里(いしだのさと)ともいったというから、石や岩の多い土地だったということだろう。
「やがた」の「や」に縁起のいい「八」の字を当てたことで「八が田」が八事になったというのは充分考えられる。
 八事の地名は江戸時代にはすっかり定着しており、尾張の人が「山へ行く」といったらそれは八事の山に行楽に行くことを意味した。
 1686年に八事山興正寺(web)が建ち、お参りもしつつ、山に登って景色を眺めるということを江戸時代の人々はしていたのだろう。ついでに八幡社や一之御前社などにも参拝していったかもしれない。
 明治になると八事に馬車鉄道が開通し、やがて路面電車になった。
 山には遊園地ができたり、野球場が建てられたりもした。
 その頃の八事はものすごい賑わいだったようだけど、今の八事を知っているとその頃の様子を想像するのは難しい。歓楽地の面影はなく、今は大学などの学校が集まる文教地区というイメージが強い。
 ここが音聞山と呼ばれた頃の八幡社はどんなふうだったのだろう。それを思い浮かべるのもやっぱり難しい。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

八事神社は八事のじゃない方神社

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