八事村にあった八幡社に、一之御前社と高峯社を合祀して八事神社としたのが明治43年(1910年)のことだった。 そのあたりのいきさつを『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明らかではない、『尾張志』に”八幡社は八事村音聞山のふもとにあり、神功皇后、応神天皇、玉依姫三坐を祭るとよし社人を富田式部という。一の御前社は大伴武日命を祀り天文十五年(1546)以后(ママ)の棟札あり”と明治5年、村社に列格する。明治43年4月22日。八事字宮脇40番、村社、一の御前社と字八幡山65番、村社高峯社を本社に合祀し、八幡社を八事神社と改称した。大正12年10月6日、社殿を改築、昭和4年12月14日、社務所を新築する」
現在、御幸山(みゆきやま)と呼んでいる山をかつては音聞山(おとききやま)といっていた。 音聞山について『尾張志』(1844年)はこんなふうに書いている。 『八事村にあり此山は天道山高照寺の東南に一峯秀抜して眺望いはむかたなし南東の山の麓に八事村島田村つづきて天白川東より西南に流れ連綿たる事帯のことく西南に年魚市潟熱田の海渺々として晴れわたる日影には来よりつとへる千船ものふねの数も忽によみ盡すへくやのこなたに眉引のことく黒みて横ぎれるは鳴海道の並松原なり嶺上にもと祠ありしが廃たる址に古松むらむら立てりこは名所ゆえ古詠あり」 はるかに見渡す年魚市潟(あゆちがた)の波音が聞こえるということで音聞山と呼ばれるようになったというのはちょっと文学的すぎるか。 御幸は行幸(ぎょうこう)の意味で、明治天皇と大正天皇の御野立所(休憩所)がここに設けられたため、御幸山と名を改めた。 御幸山の西には音聞山の地名が残っており、北は八幡山が町名となっている。 八事村の集落は現在の元八事にあって、上八事と下八事に分かれていた。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると様子が分かる。上山川とは今の元八事3丁目から4丁目にかけてで、下八事の集落は元八事2丁目にあった。 明治の地図には下八事に鳥居マークがあり、大正9年(1920年)から鳥居マークが消えるから、この鳥居マークは一之御前社ではないかと思うのだけど断言はできない。
江戸時代の八事村にあった神社について江戸期の書はそれぞれ以下のように書いている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社七ヶ所 社内三町弐反歩 前々除 八幡 当村祢宜 半右衛門持分 内 高峯大明神 同所仏地院持分 大明神 権現 白山 山神両社 村中支配」
『尾張徇行記』(1822年) 「八幡祠官留田三太夫書上ニ、境内長五十六間横四十二間御除地 庄屋書上ニ、氏神大神宮境内長三十四間横二十七間、山神祠境内長四十六間横二十間、白山権現祠境内長五十六間横四十八間、山神祠境内長四十四間横二十六間、富士祠境内長十二間横十間今ハ祠ナシ山神祠境内長十二間横十間倶ニ御除地松林ナリ 府志ニ、神明祠在八事村、為氏神、又云王神 摂社 天神、山神 八幡祠、高嶺祠、白山祠在同村」
『尾張志』(1844年) 「一ノ御前社 八事村にあり祭神定かならす二坐のよしいへり天文十五年以降の棟札有り末社に八幡天神相殿社 山神社又修験金剛院あり」 「八幡社 音聞山のふもとにありて神功皇后應神天皇玉依姫三坐を祭るよしいへり社人を富田式部と云」 「高峯社 祭神詳ならす 富士ノ社 音聞山にあり修験珠寶院 白山ノ社 山神社三所」
八幡、一之御前、高峯の他に、神明、白山、富士、山神などがあり、すべて前々除となっているから1608年の備前検地以前にすでにあったと考えていい。 このうち、白山社、富士社、山神社は境内社となっているものの、神明社が失われてしまっているのが気になる。『張州府志』では「神明祠在八事村、為氏神、又云王神」とあり、神明社が八事村の氏神ではなかったのか。「王神」ともいっていたというから、本居神とも考えられる。八事天道にある五社宮は違うと思うのだけど。
気になるといえば、八幡で応神天皇と神功皇后と玉依姫の三柱を祀るとしていることも少し引っかかる。 神功皇后は応神天皇の母なので八幡社で祀られることはよくあるのだけど、玉依姫を八幡社で祀る例は少ない。八幡総本社の宇佐神宮(web)では応神天皇、神功皇后に加えて比売大神を祀っている。玉依姫はこの比売大神のことともいうのだけど、宇佐神宮の比売大神は多岐都比売命・市寸島比売命・多紀理毘売命の宗像三女神のこととしているので玉依姫とは違う。玉依姫は初代天皇・神武天皇の母だ。 現在の八事神社では神功皇后も玉依姫も祀っていない。
一之御前社と高峯社については江戸時代ですでに祭神が分からなくなっていたようだ。 一之御前社については、瑞穂区御劔町の一之御前社のところで少し書いた。 熱田神宮(web)にある一之御前社から勧請したようなのだけど、詳しいことは分からない。 もともと熱田社では大伴武日命(おおとものたけひのみこと)を祀っていたとされ、瑞穂区平郷町も八事村にあった一之御前社も祭神は大伴武日命となっている。 大伴武日は、大伴連(おおとものむらじ)の遠祖で、垂仁天皇時代には武渟川別(阿倍臣祖)、彦国葺(和珥臣祖)、大鹿島(中臣連祖)、十千根(物部連祖)らとともに五大夫(まえつきみ)に任じられ、祭祀を担当するように命じられている。 景行天皇の時代にヤマトタケルの東征に吉備武彦(きびのたけひこ)と共に従い、蝦夷(えみし)を平定したことで、甲斐の酒折宮(web)で靭部(ゆきべ/ゆげいのとものお)を与えられたという。 靭部というのは弓矢を入れる道具を背負う兵士のことで、それによって朝廷の警護に当たったと考えられている。 祭祀の氏族から軍事的な色合いを濃くしていったというのは物部氏に通じるものがある。 熱田社で大伴武日を祀ったのは、ヤマトタケル東征の従者だったことからだろう。本社北西の一之御前社で大伴武日を、北東の龍神社に吉備武彦を祀っていた。これは本社に祀るヤマトタケルを守護するという意味合いだっただろうか。 熱田神宮は長らく本社の北エリアを禁足地として一般公開していなかった。それが平成24年(2012年)から突然一般開放したのは何故なのか。現在の一之御前社は天照大神の荒霊を祀るとしている。
高峯社についてはよく分からない。高峯大明神と称して修験珠寶院の持分だったというから修験と関係があったかもしれない。 高峯神社というと、兵庫県加西市にある高峯神社は『延喜式』神名帳(927年)に載る播磨国賀茂郡の崇健神社に比定されている。 他にも高峯神社はいくつかあるようだけど、八事村にあった高峯大明神がどこの系列のものなのかは調べがつかなかった。
八事(やごと)の地名の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「岩之田(やがた)」が鎌倉から室町時代にかけて変化したものと書いている。南北朝時代の土岐氏の記録に八事村が出てくることからすると、その頃すでに八事村と称していたようだ。 石田里(いしだのさと)ともいったというから、石や岩の多い土地だったのだろう。 「やがた」の「や」は岩を指し、「ごと」は古語で凝り固まっているという意味の「こごし」から転じたもので、岩のごつごつしている土地のことという説もある。 御幸山の一帯は今でこそすっかり住宅地となっているけれど、江戸時代は尾張を代表する景勝地で、明治から昭和にかけては一大観光地だった。名古屋の人が「山」といえば「八事山」のことで、「山へ行く」といったらそれは八事の山に行楽に行くことを意味した。 1686年に八事山興正寺(web)が建ち、お参りもしつつ、山に登って景色を眺めるということを江戸時代の人々はしていたのだろう。熱田宿の向こうはすぐ海だったから、実際ここからよく海が見えたはずだ。 明治になると八事に馬車鉄道が開通し、やがて路面電車になった。 山には遊園地ができたり、野球場が建てられたりもした。 かつての八事はものすごい賑わいだったようだけど、今の八事を知っているとその頃の様子を想像するのは難しい。歓楽地の面影はなく、今は大学などの学校が集まる文教地区というイメージが強い。 ここが音聞山と呼ばれた頃の八幡はどんなふうだったのだろう。想像しようとしても上手く想像できない。
作成日 2017.12.20(最終更新日 2019.2.4)
|