稲荷鳥居には「喜徳稲荷」の額が掛かり、看板に「奉納喜徳稲荷吒枳尼天」とある。仏教系の稲荷と考えてよさそうだ。 喜徳稲荷というのは特定の稲荷を指すのではなく、めでたい字を使って名づけたのではないかと思う。稲荷の頭に冠する名前には決まったルールはなく、好きに名づけることができるらしい。自分の名前でもいい。 ただ、喜徳稲荷というと愛知県安城市の妙教寺に同名の稲荷があり、どちらも旧鎌倉街道沿いにあるということで、ひょっとすると何か関係があるのかもしれない。 妙教寺は眼病を患っていた日喜上人が鎌倉街道にあった稲荷にこもって法華経を読経したところ一夜で治ったことから自宅に稲荷を勧請して志貴教会を設立したのが始まりで、それが明治36年という。 昭和25年に二世の日徳上人が法喜山妙教寺とした。 関係がありそうでなさそうな話ではある。
稲荷がある宿地(しゅくち)の地名は、東海道が整備される前に鎌倉街道が幹線道路だった頃、ここに宿駅の所宿があったことからそう呼ばれるようになったとされる。詳しい場所や規模などは伝わっていない。 津田正生は『尾張国地名考』の中で、「往昔の宿の所也といひ伝ふ」として、「シクヂ」とフリガナをしている。宿は古くは「シク」と読むのが一般的だったようだ。 宿駅というのは旅人を宿泊させたり、荷物運搬のための馬や人を備えていた場所で、後に東海道の宿場として発展した原型のようなものだ。 律令時代に始まり、平安時代にいったん廃れたのが鎌倉時代になって復活した。 鳴海の宿地は鎌倉時代以降のものということになりそうだ。
祀られている吒枳尼天/荼枳尼天(だきにてん)はインドのダーキニー(Ḍākinī)が起源とされる。 日本の仏教に取り込まれたとき天部に属すことになったこと吒枳尼天と呼ばれるようになったもので、中国仏教では荼枳尼とされた。 インド時代のダーキニーは裸で空を飛び人肉を食べる魔女(夜叉)とされた。もともとはヒンドゥー教やベンガル地方の土着信仰から来ているという説がある。 密教では大日如来が化身した大黒天によって調伏されて死者の心臓なら食べることを許された。仏道に帰依して、大黒天によって真言を授かった荼枳尼は6ヶ月前に人の死を知ることができるようになり、死の直後に心臓を食べるとされた。 その後、様々な変化をとげた荼枳尼は平安時代初期、空海によって日本にもたらされた。そのときは閻魔天(えんまてん)の眷属(けんぞく)となっていて、半裸で片手に短刀、もう一方に屍肉を手にする姿となっていた。 そこから何故か、白狐にまたがる天女になり、白狐が稲荷神の使いである狐と結びついて神仏習合し、寺でも祀られることになる。 中世には天皇が即位する際に荼枳尼天の真言を唱えたといい、平清盛は荼枳尼天の修法を行っていたなどという話もある。 戦国時代には武将が荼枳尼天を信仰した例がけっこうあり、城の守り神ともされた。 江戸時代になると商売繁盛の神ということで江戸には大量の稲荷が祀られるようになるのだけど、稲荷は身分を問わないとされたため遊女や博徒、下層階級の人たちも信仰した。 稲荷は一度祀ると生涯祀らないといけないという話がある。それはこの荼枳尼天の性格から来ていて、途中で裏切るとたちまち災厄に見舞われるとされた。ハイリスク・ハイリターンの神といえる。 荼枳尼天を祀っていた主な寺に、豊川稲荷(妙厳寺 web)や伏見稲荷本願所(愛染寺)、最上稲荷(妙教寺 web)などがあった。 神道系の稲荷は伏見稲荷大社(web)からの勧請が大部分で、仏教系は豊川稲荷からの勧請が多い。 伏見稲荷は明治の神仏分離令以降、荼枳尼天を祀ることをやめている。
豊川稲荷の正式名は円福山豊川閣妙厳寺(みょうごんじ)で、稲荷でよく知られているけど本体は曹洞宗の寺で本尊は千手観音だ。稲荷は境内の鎮守でしかない。なので本堂に参拝してもそこに吒枳尼真天はおらず、豊川吒枳尼真天は秘仏となっている。 妙厳寺は室町時代中期の1441年(嘉吉元年)、東海義易によって創建された。当初は豊川近くの円福ヶ丘にあった。 鎌倉時代の禅僧・寒巌義尹が宋から帰国する途中で吒枳尼天の加護を受けたことがきっかけで信仰するようになり、寒巌から6代目に当たる東海義易が寒巌作の吒枳尼天像を山門の鎮守として祀ったのが始まりとされる。それは白狐の背に乗って稲束をかついで宝珠を持ち、岩の上を飛ぶ天女の姿だという。 戦国時代以降は今川義元や徳川家康が大事にしたことで発展した。 九鬼水軍で知られる九鬼嘉隆は、金毘羅の毛利水軍に対抗するために豊川稲荷を信仰して打ち負かしたなどともいわれる。 江戸時代になると、大岡忠相や渡辺崋山などが信仰したことで江戸でも知られるようになり、豊川稲荷は全国区になっていった。
鳴海宿地の稲荷をいつ誰が祀ったのかは分からない。 隣の家の庭稲荷かとも思ったのだけど、堂内の床に賽銭がたくさん散らばっていてお世話をしている様子がないから違うのか。 寺の鎮守かというとそうでもなさそうで、周囲に寺はまったくない。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、丘陵地と田んぼの境目あたりで、東海道の鳴海宿からはかなり外れている。人家のたぐいはなさそうな場所だ。江戸時代からそうだったのだろう。 1920年(大正9年)の地図では数軒の家が描かれている。 1932年(昭和7年)になると区画整理されて家が増えた。 その後の発展も緩やかで、南の田んぼが消えて全体が住宅地になるのは1970年代以降のことだ。 この変遷を見ると、さかのぼっても大正か、昭和初期だろうか。明治時代以前にここに稲荷があった可能性は低いように思う。
要するにこの稲荷に関しては何も分からないというのが結論なのだけど、荼枳尼天を信仰するならその実体をよく知ってからにした方がいいとはいえそうだ。
作成日 2018.11.16(最終更新日 2019.4.9)
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