熱田社(二番町)

三十番神を前身に持つ熱田二番の守り神

二番熱田社

読み方 あつた-しゃ
所在地 名古屋市熱田区二番1丁目11-15 地図
創建年 不明(熱田社としては明治初め)
旧社格・等級等 村社・十一等級
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
アクセス 地下鉄名港線「六番町駅」から徒歩約10分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 熱田区二番町にある熱田社は、熱田神宮web)から勧請して建てたのではなく、江戸時代の三十番神堂が明治に熱田社として生まれ変わったものだ。このパターンはかなり珍しく、名古屋ではここだけだ。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「明治制度改めにより三十番神堂の仏式を排除して、その跡地に明治5年8月、本社を創建し、村社に列格する。二番町の一丁目から七丁目まで住民の氏神として深く崇敬する」
 明治制度の改めは神仏判然令(分離令)のことで、神仏習合していた寺社を神社と寺に分けたところもあるし、寺を廃止にして神社にしたところもある。還俗して神職になった僧侶も少なくなかった。

 熱田二番町は熱田新田三十三番割の二番割に当たる。熱田新田は1646年から1649年にかけて尾張藩主導で開発された干拓新田だ。それぞれの番割に観音堂を祀り、いくつか氏神社も建てた。
 熱田新田については八劔社(熱田一番)に書いた。
 熱田社の前身の三十番神は熱田新田の中の二・三番割の氏神だった。
『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。
「三十番神堂、名古屋東寺町常徳寺書上帳ニ、界内二畝十一歩御除地、二三番割ノ中ニアリ、草創ハ慶安三寅年常徳寺四世信解院月誘代也、願主ハ当寺檀越新田百姓彦十郎ト云者ナリ」
 ここでは三十番神の創建は慶安3年といっている。これは1650年なので、熱田新田が完成した翌年ということだ。
 創建したのは常徳寺4世の信解院月誘とあるのだけど、信解院日誘かもしれない(月誘と日誘は別にいるのか)。
『尾張志』(1844年)によると、常徳寺は京都妙満寺(web)の日経が清須の土田に慶長6年(1601年)に建立した寺で、清須越で名古屋城下の法華寺町に移したという(1610年もしくは1611年)。
『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は新栄町4丁目の南といっているのだけど、現在の中区に常徳寺はない。同名の寺が南区にあるものの真宗高田派だから別の寺だろう。廃寺になったか、市外に移ったか。
 常徳寺の檀家だった彦十郎という村民が、1650年に信解院月誘(日誘?)に頼んで三十番神を祀ってもらったということのようだ。
『尾張志』は熱田新田の項でも常徳寺の項でも三十番神については触れていない。

 三十番神というのは、日本全国の有力な神社から神を30柱集めて、一日一柱の神が日替わりで世の中や人々を守ってもらうといった信仰だ。
 日本に持ち込んだのは平安時代の僧で天台宗を開いた最澄とされる。
 804年、遣唐使として唐に渡った最澄は天台教学を学んでその教義を日本に持ち帰った。その過程のどこかで古代中国の五祖山の師戒禅師が定めた三十日仏名(さんじゅうにちぶつみょう)という教えを知ったらしく、これが三十番神の起源とされる。
 最澄が比叡山に祀り、鎌倉時代になると日蓮宗や法華宗がこれを取り入れ、日像が布教活動の際に広めたともいわれる。
 一方で吉田神道の吉田兼倶も三十番神信仰の起源はうちだと主張した。
 江戸時代にかけて、各地で三十番神を祀る堂が建てられた。
 しかし、明治の神仏分離令のとき、この教えは明治政府によって禁止を命じられることになる。
 各宗派によって顔ぶれや祀る順番に少し違いがあるものの、基本はこんなメンバー構成になっている。

 熱田大明神 熱田神宮
 諏訪大明神 諏訪大社
 広田大明神 広田神社
 気比大明神 気比神宮
 気多大明神 気多大社
 鹿島大明神 鹿島神宮
 北野大明神 北野天満宮
 江文大明神 江文神社
 貴船大明神 貴船神社
 天照皇太神 伊勢神宮内宮
 八幡大菩薩 石清水八幡宮
 加茂大明神 上賀茂神社・下鴨神社
 松尾大明神 松尾大社
 大原大明神 大原野神社
 春日大明神 春日大社
 平野大明神 平野神社
 大比叡権現 日吉大社西本宮
 小比叡権現 日吉大社東本宮
 聖真子権現 日吉大社宇佐宮
 客人大明神 日吉大社白山姫神社
 八王子権現 日吉大社八王子社
 稲荷大明神 伏見稲荷大社
 住吉大明神 住吉大社
 祇園大明神 八坂神社
 赤山大明神 赤山禅院
 建部大明神 建部大社
 三上大明神 御上神社
 兵主大明神 兵主大社
 苗鹿大明神 那波加神社
 吉備大明神 吉備津神社

 見慣れない神もいるし、主役級で抜けている神もいるけど、これは夢のオールスターズだ。三十番神に日参すれば遠くまで行く必要はない。近場で各地の有名な神を参ることができる。
 神仏習合時代は仏像だけでなく神像もよく作られていて、三十番神を祀るところでは三十体の神像を日替わりで祀っていたところもあった。
 法華宗の信者だった長谷川等伯も「三十番神図」という仏画を描いている(重要文化財指定)。

『愛知縣神社名鑑』は三十番神堂の跡地に明治5年に熱田社を建てたと書いているのに対して、『名古屋市史 社寺編』は明治初年勧請といっている。前身とされる三十番神については何も書いていないので、三十番神は廃されてあらたに熱田社を創建したという認識だろうか。
 村社に列格したのが明治5年というのは間違いないだろうから、創建が明治元年か明治5年かでは意味が違ってくる。どちらが正しいのかは判断がつかない。

 祭神は日本武尊(ヤマトタケル)となっている。
 三十番神の筆頭は熱田大神で、ここは熱田神宮から近いから熱田社にしたというのは自然なことだけど、どうして祭神をヤマトタケルとしたのか。
 明治以降の熱田社は神宮号を得ると同時に主祭神を草薙剣に宿るアマテラスの霊とした。相殿神としてヤマトタケルも祀っているものの、主祭神ではない。
 熱田神宮が神宮号を認められたのは1868年(慶応4年/明治元年)なので、熱田社が建てられた頃はまだヤマトタケルを祀るという意識が残っていたのかもしれない。

 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、明治の中頃までは田んぼの中で森に囲まれて鎮座していたようだ。
 昭和になって南を国道1号線が通って、田んぼも区画整理され、戦後はこのあたりも住宅地になっていった。
 北にある白鳥西公園と一体化しているので境内はなかなか広く、社殿も立派だ。

 明治以降、三十番神はすっかりすたれてしまって、今ではそんな信仰があったことすらあまり伝わっていない。
 三十番神を祀っていたところは廃止になったり、別の神を祀る神社となった。
 ただ、完全になくなってしまったわけではなく、現在でも日蓮由来の法華経守護の三十番神を信仰する寺などはある。神社でも境内社としてわずかに生き残っている。
 かつては大陰暦だったから30神でよかったのだけど、太陽暦の今は31日があるから、追加として五番善神(ごばんのぜんじん)を祀ったりしている。
 熱田二番町の氏子の人たちはここが三十番神だったことを知っているだろうか。
 三十番神という発想は面白いので個人的には残ってほしかった。今日はアマテラスさんが祀られてるから10日だなとか、吉備大明神だから今月も終わりかとか、そんなカレンダー的な役割も果たしていたのだろうかと想像してみる。

 

作成日 2017.5.13(最終更新日 2019.9.1)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

今の熱田社に三十番神だった頃の面影はない

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