須佐之男社(中之切・出来町)

境内は狭いが山車はある

出来町中之切須佐之男社

読み方 すさのお-しゃ(なかのきり・できまち)
所在地 名古屋市東区出来町3丁目19番21号 地図
創建年 不明(江戸時代中期か)
社格等 無格社・十二等級
祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
アクセス

・JR中央本線/地下鉄東山線「千種駅」から徒歩約27分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 東区の出来町周辺にある3社(+1社)の須佐之男社のうちのひとつ。
 古出来にあるものを東之切、新出来にあるものを西之切、出来町にあるここはその間ということで中之切と呼ばれている。古くからの地名のようだ。
 3社はいずれも江戸時代中期の1700年代後半に建てられたものと考えられる。そのあたりの経緯については東之切・須佐之男社のページに書いた。
 尾張藩9代藩主の徳川宗睦(とくがわむねちか/むねよし)が、城下の人たちに疫病除けのために天王社を祀ることを奨励したことがひとつきっかけになったようだ。
 神仏習合時代の天王社なので、祭神は牛頭天王だ。明治の神仏分離令で祭神を須佐之男に、社名も須佐之男社に変えられた。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではない。明治6年、据置公許となる。昭和55年4月10日、十五級社より十二級社に昇級する。この社も境内狭く大半を山車庫の用地となる」

 創建年について詳しいことは3社ともに伝わっていないようだ。
 据置公許となったのが、ここ中之切と西之切が明治6年、東之切が明治10年と、時期の違いがある。
 近代社格制度(明治4年に制定、昭和21年に廃止)では、中之切が十二等級、東之切が十四等級、西之切が十五等級となっている。そのあたりに微妙な力関係が表れているのかどうか。
「この社も境内狭く大半を山車庫の用地となる」と、『愛知縣神社名鑑』は書いている。著者の私情がやや含まれているように感じられる。
 西之切・須佐之男社のところでは「山車の格納庫で狭い境内の大半を領して神社も肩身がせまい有様である」と、あからさまに不満そうだ。
 実際、中之切須佐之男社の境内は神社を成り立たせる要素がぎゅっと詰まっていて狭いといえば非常に狭い。6畳の部屋にちょうどいい家具調度品を3畳の部屋に押し込んでしまったような感じだ。
 入り口に鳥居があって、短い参道を進んだ先に小さな拝殿があり、その横に石灯籠が一基、玉垣で囲った高台に小振りの本社が鎮座している。ちゃんと左右に狛犬と獅子もいる。それに加えて本社左手には稲荷社もあり、朱塗りの鳥居も建っている。その前に木が植わっている。入り口鳥居前には姿のいい松の木もある。
 この左右に山車を納める山車庫と社務所兼集会場の中之切会館が建つ。むしろこの敷地によくぞこれだけのものを上手く収めたものだと感心する。

 毎年6月に行われている出来町天王祭についても東之切・須佐之男社のページに書いた。
 6月の第一土日に3社がそれぞれ所有する山車を曳きだして町内を練り歩きながらからくりを披露する。
 中之切の山車は河水車(かすいしゃ)と呼ばれている。
 江戸時代前期の1674年に中区の住吉町で建造されたもので、当所は産宮車(うぶみやしゃ)という名前が付けられていた。その後、1761年に人形が変えられて名前も菊慈童車(きくじどうしゃ)となり、更に1772年に改造されて河水車となったと伝わっている。
 中之切はもともと尾張藩10代藩主・徳川斉朝から拝領したとされる石橋車(しゃっきょうしゃ)を所有していた。これが昭和20年の空襲で焼けてしまったため、戦後の昭和23年に住吉町から河水車を購入することになった。これは若宮祭で使われていたものだった。
 河水車の水引幕は、石橋車に使われていたものを模して平成2年に復元したもので、唐獅子と牡丹の刺繍が施されている。
 人形は屋台に大将と2体の唐子人形が載り、前棚に麾振(ざいふ)り1体が載っている。
 人形の舞は能楽の「石橋」に由来したもので、獅子頭をつけた唐子が首を上下に振りながら踊り、中人形の唐子が左右に走って松の木に吊った太鼓を打つ。
 筒井町天王祭の山車2台とあわせて徳川園で5台の山車揃が行われる他、名古屋まつりでは他の地区の山車も参加する山車揃がある。

 神社の由緒については伝わらなかったけど、山車祭の伝統はしっかり伝わった。天王祭という中に牛頭天王も生きている。境内が狭いとかそんなことよりも大事なことはある。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

名古屋市東区は須佐之男神社がいっぱい

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