この六所神社は名古屋市北部に点在する他の六所社とは一線を画すまったく別の六所社だと感じた。 出向く前は六所社ということで何も期待していなかった。早いところ六所社を全部回って終わりにしたいという気持ちしかなかった。 やや入り組んだ場所にあって、少し道に迷った。地図上で目印となる大洋機工を見つけて、東方向からアプローチすることになったのだけど、いきなり正面に入り口鳥居が現れて、え? と思った。東向き社殿か、と。 境内は決して広くない。同じ敷地内に公民館があったりして他の建物と同居している。しかし、社殿がいい。それと、境内を満たしている空気が違う。 参拝してひと通り見終わって写真も撮って普段ならここで後にするところだけど、そんな私を何かの力が引き留めた。もう一度拝殿の前まで行って中の本殿をのぞき込み、境内社もじっくり確認して思った。 ここって、式内クラスの古社じゃないの? と。 ある種のすごみみたいなものがじんわり伝わってくる神社だ。自分の感覚は半分くらいしか信じていないのだけど、この神社に関してはその感覚を信じていいと思った。ガツンと来るというより、ジンジン来た。 それを私は古社くささと呼んでいる。ここは明らかに古社くさい。
大乃伎神社のところでも書いたように、津田正生は『尾張国地名考』の中で、大野木村と比良村はもともと同じ地区で、天野信景(あまののぶ かげ)が『本国神名帳集説』の中で大野木天神を大乃伎神社としているのは誤りで、比良村天神こそが式内の大乃伎神社だとしている。 個人的にはその可能性があるんじゃないかと感じている。充分それだけの雰囲気を持っている。ただし、津田正生の独自説にそのまま飛びつくのは危険性がある。もう少し検討してみる必要がありそうだ。 『尾張志』や『尾張名所図会』では、大野木村の六所明神を式内・大乃伎神社としていて、比良の天神社については触れていない。 『特選神名牒』でもやはり、大野木村の六所明神としている。ただし、イザナギ・ファミリーの六柱は後付けとする。 比良の天神を大乃伎神社といっているのは、津田正生と私の勘だけ、ということになるだろうか。
本殿の左右にふたつの社がある。 非田神社と大江神社だ。非田神社は『延喜式』神名帳の「尾張国春日郡非多神社」、大江神社は「尾張国春部郡乎江神社」のそれぞれ論社とされる。 ただ、個人的には両方とも懐疑的だ。特に大江神社は違うだろうと思う。 大江神社の祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)というから、富士山本宮浅間神社(web)から勧請したものと思われる。 式内・乎江神社は名前からしても、場所柄からしても、川や水に関係のある神を祀った神社として創建された可能性が高い。富士山の神のコノハナサクヤヒメでは合わない。 それに、乎江神社は式内社の中でも特に分からない神社なので、こんなところでひょっこり顔を出すとも思えない。 移される前は久地野村字北権現にあったというから、今の北名古屋市久地野のどこかだろう(かつての師勝町)。 非田神社を式内・非多神社とする可能性はある。ただ、ここで山田郡と春部郡の郡境問題が出てくる。 非田神社は大正8年(1919年)、堤防工事にともない、六所神社の東数百メートルのところにあったものを六所社の境内に移したという。 『愛知縣神社名鑑』にある「字飛多野天神の無社格非多天神社」の字飛多野天神というのがどこを指しているのかが分からないのだけど、それは現在の新地蔵川の西岸なのか東岸なのか。 このあたりは庄内川の水害に長年悩まされた地区で、江戸期に入ってから新たに堤防を築いたり川を掘削したりと大がかりな工事が行われたため、本来の地形がよく分からなくなってしまっている。 『愛知縣神社名鑑』にはこんな記述もある。 非多天神社は「延喜式内社の宮なりと高田寺村に住む旧神官町田某、所持の由緒古記に非多天神とある」 高田寺村というのは720年に行基が開いたとされる天台宗の古刹、高田寺(こうでんじ / web)がある村だ。大同年間(806-810年)に最澄が来て寺号を高田寺にしたとも伝わる。比良村と高田寺の距離は直線で1.5キロから2キロくらいだから、高田寺と周辺の神社と無関係ではなかった可能性はある。 現在は非田神社と称して、国常立尊(クニノトコタチ)と天御中主尊(アメノミナカヌシ)を祀っている。いかにも古社を思わせる祭神だけど、本当に元からそうだったのか、後付けなのかは判断ができない。 ひとつ問題は、非田神社(非多天神社)があった場所だ。 神社があった場所が比良村だったとすれば、ここは山田郡ではないのか。式内・非多神社があったのは春部郡(春日部郡)だ。非多天神がそれ以前に別の場所から遷座していれば別だけど、そうでないのなら春部郡非多神社ではないということになる。 六所社がある比良村や大乃伎神社がある大野木村は山田郡で間違いないと思う。比良の東に大我麻があり、そこにあった大井神社は式内・山田郡大井神社だった。のちに村ごと東の如意に移り、春部郡山田荘になった。大我麻と如意の間に山田郡と春部郡の郡境があったと予想できる。 中世に山田郡が廃止されて、分割されたのち春部郡と愛智郡にそれぞれ合併された。更に、春部郡が西春日井郡と東春日井郡に分けられたとき、比良村は西春日井郡山田村に属した。 以上を考えあわせると、非田神社は式内・春部郡非多神社ではない、ということになる。 もう一箇所、非多神社の論社がある。小牧市卑田にある三明神社がそれだ。 かつての林村で、卑田が非多のことではないかということで天野信景がとなえた説だ。 『愛知縣神社名鑑』の中でもその説に触れている。里人いわく、林村字平野というところに天神社があって、それはもう廃絶してしまったのだけど、三明神に相殿として祀っているという。 ただ、この地区は古くから丹羽郡の尾張二宮・大縣神社(web)の領内ということでそれは違うのではないかともいう。
私が感じた古社くささといったものはどこから来ているのか。本社なのか、境内社の非田神社なのか。 他の六所社とは一線を画すとはいえ、祭神はイザナギ、イザナミ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオ、ヒルコの六柱ということで、その下に隠された本来の姿を知ることはできない。取っかかりとなる手がかりすらない。 『愛知縣神社名鑑』にある「比良の産土神として古くより鎮座」という一文にわずかな光を見た。土地の守り神としてイザナギ・ファミリーを勧請することはまず考えられない。 先ほども書いたように、ここは水害危険地帯だ。この地区を支配していた豪族などの影が感じられない以上、水関係の神を祀るのが自然な発想だろうと思う。 それにしても、この神社を創建した人々の正体というか属性が全然掴めない。豪族なのか、土地の民なのか、村長なのか、それらとは別の集団なのか。
『西区の歴史』は、棟札と『蓬州旧勝録』から創建を元禄年間(1688-1703年)としているけど、『寛文村々覚書』(1670年頃)の比良村の項にある「大明神」が比良六所神社のはずだから、元禄年間創建ということはあり得ない。 江戸時代前期の比良村には他に権現と天神があったことが分かる。天神が非田天神のことで、権現が大江神社のことではないかと思う。
比良六所神社は二輌の山車を持っていて、10月の例大祭では隔年で曳いて練り歩く。 二福神車(にふくじんしゃ)と湯取神子車(ゆとりかみこしゃ)は江戸時代に建造されたもので、どちらも名古屋型の山車だ。 どういう経緯で入手して、いつ始まったのか、詳しいことはよく分からない。これは六所社本社の祭りなのだろうか。
結局、今回も六所社はよく分からないという結論で終わってしまうのだけど、ひとつ確かなことは、個人的にこの六所神社が好きだということだ。それだけでも大きな収穫だった。
作成日 2017.4.8(最終更新日 2018.12.18)
|