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津島社(上社)

上社の住人をつなぐ小さな神社

上社津島社

読み方 つしま-しゃ(かみやしろ)
所在地 名古屋市名東区上社3丁目 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明(おそらく須佐之男命)
アクセス 地下鉄東山線「本郷駅」から徒歩約7分
駐車場 なし
その他 天王祭 7月11日
オススメ度

 かつての上社村の天王社。現在は上社の日吉神社の境外社ということになっている。
 もともとこのあたりは社郷(やしろごう)と呼ばれた場所で、その後、上社村、下社村、一色村に分かれた。
 社(やしろ)の由来は矢白から来ているということは貴船社(貴船)のページに書いた。
 日照りで村が困っているときに白い矢を祀ったところ雨が降ったため、矢白を祀る矢白社を建て、村は社村と呼ばれるようになったという話が伝わっている。白羽の矢が立つというのは人身御供として選ばれるということなので、犠牲者を祀ったのが矢白社だったのではないかと推測する。上社、下社、一色にそれぞれ貴船社があったので、それが矢白社から分かれたものとも考えられる。

 上社村の中心には観音寺(地図)があった。これは今も現存している。
『尾張志』(1844年)はこう書いている。
「上社むらにありて萬松山といふ熱田海國寺に屬り建久年中に山田次郎重忠創建ありて其後破壊したるを慶長年中に再興し僧南嶺を中興開祖とせり本堂に木佛坐像の釋迦如来を安置す又観音堂の本尊は山田左衞門が守本尊なりといふ薬師堂鎮守のやしろなともあり」
 鎌倉時代初期の建久年間(1190-1198年)に山田重忠が創建したといっている。にわかには信じられないのだけどあり得ない話ではないのか。
 山田重忠の本拠は北区山田あたりにあって、源平合戦を戦い、鎌倉幕府の御家人となり、承久の乱では朝廷側について奮戦して命を落とした源氏の武将だ。北区矢田の六所社や長母寺などを創建したとか星崎城主だったという話もあり、尾張の地に多くの足跡を残している。しかし、上社村に観音寺を建てただろうかと考えるとやや疑問だ。
 慶長年中(1596-1615年)に南嶺という僧が再興したというのは信じられる。
『尾張徇行記』(1822年)によると、寺内は前々除とあるので、1608年の備前検地以前からあったと見ていい。
 南嶺和尚は寺の六世というから、途中で荒廃していたとしても1190年創建というのはやはりないかもしれない。
 寛文7年(1667年)に熱田の海國寺に属したとも書いている。海國寺(地図)は今も熱田神宮の南に残っている。
 本尊の十一面観音は行基の作で、山田左衞門の守本尊だったという話がある。そこから創建したのは行基で、奈良時代初期の養老年間(717-724年)だったという説もある。古くは円福寺と称していたようだ。
 この十一面観音は秘仏とされていて、17年ごとにご開帳がある。前回は平成26年(2014年)の10月2日から七日間だったから、次回は2031年だろうか。
 観音堂の創建は1191年というから、山田重忠創建というのはこのことかもしれない。
 それと、この観音寺近くに上社城(上社4丁目あたり)があり、城主は加藤勘三郎で、家老に山田左衛門がいた。『尾張徇行記』に十一面観音を守り本尊としていたと書かれている人物だ。
 上社城がいつ建てられたかは分からない。室町時代か、それより前なのか。加藤勘三郎は代々の城主の名前で、1469年に当時の城主の加藤勘三郎は高針城を築いてそちらに移ったため廃城になったとされる。しかし、1474年(文明6年)の観音寺の過去帳に加藤勘三郎の名があるようで、それをどう見ればいいか。
 山田左衞門も代々の当主の名前だったかもしれない。山田重忠の子孫だろうか。
 本能寺の変(1582年)の後、高針城主の加藤勘三郎は主君の織田信忠のもとに駆けつけるべく京に行ったきり戻ってこなかったため、山田左衞門が後を引き継いだともいう。
 それまで荒廃していた円福寺に上社城にあった観音堂を移して観音寺とあらためたのは山田左衞門という話があり、これが一番現実的な気もする。

 江戸時代の上社村の神社についてはそれぞれこうある。

『寛文村々覚書』 (1670年頃)
「社 三ヶ所 内 山王 明神 山之神 社内壱反壱畝歩 前々除 新居村 祢宜 与太夫持分」

『尾張徇行記』(1822年)
「社三ヶ所、覚書ニ、此内山王・明神・山神社内一反一畝前々除、新居村祢宜与太夫持分 新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、山王社内一反六畝、貴船大明神社内一反二畝、山神社内三畝何レモ前々除」

『尾張志』(1844年)
「山王社
 貴布禰ノ社
 山神ノ社

 山王は今の日吉神社のことで、明神は貴船社のことだ。貴船社と山神は明治に日吉神社に移された。
 天王社はここには出てこない。いつ誰が祀ったのかは分からない。天王社を津島社に改めたのは明治になってからだろう。いつ日吉神社の境外社という扱いになったかも調べがつかなかった。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く上社村の様子が見てとれる。
 集落があったのは、今の上社3丁目から東の社が丘1丁目、2丁目にかけてで、東山通を挟んで北の上社2丁目は田んぼと丘陵地だった。山王社(日吉神社)は集落から外れた丘陵地の上にあったことも分かる。
 村の中心に観音寺があり、北の平地を田んぼにして、南の丘陵地には溜め池を作っていた。『尾張志』によると溜め池は村に14ヶ所あったという。
 一番大きな溜め池は小堤池と呼ばれていた。昭和に入って埋め立てられ、今はそこに上社小学校が建っている。
 観音寺があるあたりが宅地化されて家が増えたのは1960年代以降だ。1970年以降に区画整理されて、現在の町並みの基本が完成した。
 津島社はこのとき現在地に移されたようで、かつてはもう少し北西にあったと考えていいだろうか。
 旧地には火の見櫓や秋葉の常夜灯、馬頭観音、行者堂もあったという。

 2013年、約40年ぶりに古老の記憶を頼りに”おしゃと”と呼ばれる仮社殿を復元させたそうだ。
 竹を柱にして麦の茅葺き屋根を載せたもので、虫送り神事のためのものなのだとか。
 今は天王祭として7月11日に行われている。
 日吉神社や貴船社なども兼務している日進市岩崎の白山宮の宮司を呼んで祝詞を読んでもらい、氏子や保存会、子供会が集まって祭事を行っているという。
 祭りの様子がYouTubeにアップされている。
 上社津島社天王祭(web

 普段は参拝に訪れる人が少ない小さな神社でも、祭りとなれば人を集め、地域の住人をつないでくれる。21世紀の現代でも、神社にはそういう力がある。
 だから、安易に廃社したり合祀したりしてはいけないのだ。

 

作成日 2019.5.22

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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