天神社(烏森)

烏森の天神社は愛智郡針名神社なのか?

烏森天神社

読み方 てんじん-しゃ(かすもり)
所在地 名古屋市中村区烏森町字村内下66番地 地図
創建年 不明
社格等 指定村社・ 十二等級
祭神 菅原道真(すがわらのみちざね)
アクセス

・近鉄名古屋線「近鉄八田駅」から徒歩約8分
・駐車場 なし

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オススメ度

 中村区烏森(かすもり)にある天神社は、延喜式神名帳にある愛智郡針名神社か否か、が問題となる。
 一般的にというか公式には天白区平針にある針名神社地図)がそれに当たるということになっている。
 しかし、天白区平針のあたりがかつて愛智郡だったかといえばそれは大いに疑問だ。あのあたりはどう考えても山田郡だろう。山田郡であるならば、平針の針名神社がどれだけ古い歴史を持つ神社であったとしても延喜式神名帳の愛智郡針名神社ではあり得ない。平針の針名神社も立派で格式のある神社には違いなさそうなのだけど。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「『尾張志』に天神ノ社かすもりむらにあり、と『尾張国地名考』(正生考)”一楊庄烏森禅養寺門前にある氏神天神是なり、”(中略)
 明治5年7月、村社に列格し明治40年指定村社となる。
 参考・針名神社は延喜式内社、国内神名帳に従二位針名天神という」
(中略の部分は『尾張國地名考』の引用なのでここでは省略した)

『愛知縣神社名鑑』が式内社の論社について触れるのは稀で、それだけ愛知県神社庁としても烏森天神社にその可能性を見ているのではないかと思われる。
 津田正生は『尾張國地名考』と『尾張国神社考』(『尾張神名帳集説本之訂考』)の中でそれぞれこう書いている。

『尾張国神社考』
「【正生考】一楊荘烏森村(ひとつやなぎかすもり)禅養寺(禅宗)門前にある氏神天神是なるべし
【瀧川弘美曰】集説に平針村といへるは非言(ひがこと)なるべし。平針は往昔山田郡の地理にて愛知郡にあらず。いま平針を鳴海荘といふも戦国以後の誤なるべし
【正生考】一柳荘野田、厨郷(中郷)、荒子、高畑、万町、治田(八田)、烏森の七村は延喜の頃の新開の地にて、一圓に伊勢大神宮の神戸御厨の地也とかや。針名治田みな開墾の謂也。後世鎌倉以来村にわかれ獨立してより、今は烏森の氏神と成たまへり。爰をもて愛知郡針名神社は、治田天神にて、今烏森に座事を世俗はしらざる也。」

『尾張國地名考』
「【度會延経曰】針名の社は尾治針名根連を祀るか
【或人曰】針名根連は天の火明尊十三世孫尾綱根命の子なり
【正生考】一柳庄(ひとつやなぎ)烏森村禅陽寺(禅宗)門前にある氏神天神是なるべし
【瀧川弘美曰】集説に平針村をいへるは非言なるべし平針は往昔山田の郡の地理にて愛知郡にあらず今平針を鳴海庄といふはも戦国以後の誤りなるべし
【正生考】一楊庄野田厨郷(中郷)荒子高畠萬町治田(八田)烏森の七村は延喜の此の新開の地にて一圓に伊勢大神宮の神戸(かんべ)御厨(みくり)の地也と有り針名治田みな開墾の謂也後世鎌倉以来村々わかれ獨立してより今は烏森の氏神と成たまへり爰をもて愛知郡針名の神社は治田天神にて今烏森に座す事を世俗はしらざるなり」

 ほぼ同じような内容なのだけど要点をまとめるとこうなる。
 集説(天野信景による尾張の神社研究書『本国神名帳集説』のこと。1707年成立)がいう平針村は間違い。平針村は愛智郡ではなく山田郡だ。
 烏森村にある天神社が延喜式神名帳にある愛智郡針名神社である。
 祭神は針名根連である。これは尾張氏の祖神である天火明尊十三世孫の尾綱根命の子に当たる。
 烏森村の天神社は、禅陽寺(禅養寺)の門前社になっている。
 針名や治田は開墾を意味する言葉で、野田、厨郷(中郷)、荒子、高畠、萬町、治田(八田)、烏森は延喜年間(901-923年)にあらたに開墾された土地で、後に伊勢の神宮の荘園、一楊御厨となった。
 よって、延喜式神名帳の針名神社は治田天神に違いない、と津田正生は結論づけている。「世俗はしらざるなり」と、なにやら自信たっぷりだけど、決定的な根拠を握っていたのだろうか。

 平針の針名神社は成立に関して不明な点が多く、延喜式神名帳の針名神社と言い切れないところは確かにある。地理的に愛智郡とするのは無理があるということもある。
 しかし、だからといって烏森の天神社がそれだと言われてもすぐには納得できない。根拠が弱いのではないかと思う点がいくつかある。
 まず、治田あたりが延喜年間に新たに開拓されて、それにともなって天神社が建てられたとしたら、新しすぎるということだ。
 延喜式は927年に成立したとされているけど、編さん自体はもっと前に始まっているはずで、延喜元年の901年に創建されたとしても、そんなにできたてほやほやの神社を官社として神名帳に載せただろうかという疑問がわく。
 それから、祭神が尾治針名根連とすると時代が違いすぎるというのも気になる。
 針名根連は、建稲種命(タケイナダネ)の孫に当たる。建稲種命は尾張国造初代の乎止与命(オトヨ)の子だ。日本武尊(ヤマトタケル)の妃になった宮簀媛(ミヤズヒメ)の兄が建稲種だ。
 針名根は仁徳天皇の大臣を務めたというから、年代でいうと400年代ということになるだろうか。延喜年間から見て500年近く前の人物ということだ。その人物を祭神として神社を建てたとすれば針名根の子孫ということになりそうだけど、このあたりは尾張氏の影響はあまり感じられないのだ。
 針名根は犬山の針綱神社(web)の祭神にもなっている。針綱神社もまた、創建のいきさつについてはよく分からない神社だ。
 尾張氏の系図を見ると、針名根には尾治弟彦連(オトヒコ)という兄がいて、その人物が嫡流のようなのだけど、弟彦連についてはほとんど足跡が残されていない。
 更に言えば、このあたりでは巨大な古墳が見つかっていないというのが弱い。平針は植田八幡社地図)の境内に全長80メートルほどの前方後円墳がある。その古墳は針名根のものともいわれる。
 治田、烏森あたりには古代の匂いといったものが感じられない。尾張氏や熱田社の影も薄い。
 こういったことを考え合わせると、烏森の天神社が尾治針名根連を祀る針名神社という考えには必ずしも共感できない。
 尾治針名根連とは無関係の村の氏神を祀る神社を延喜年間に創建して、それが官社と認められて延喜式神名帳に載ったのだというのなら、その可能性はある。

『尾張志』には「天神ノ社 かすもりむらにあり」とあり、『尾張徇行記』では「此社草創は知レズ、再建は寛文二丑年也」、『寛文村々覚書』では「社三ヶ所 内 天神 八幡 神明 前々除 中郷村祢宜 孫大夫持分」となっている。
 江戸時代には村にある神社のひとつという認識で、特別視されていなかったようだ。
 再建の寛文二年は1662年になる。
 祭神が菅原道真になったのは案外古いかもしれない。津田正生なども、天神はもともと天津神のことで菅原道真のことではないと、たびたび書いている。戦国時代から江戸時にかけて、天神信仰と道真信仰がごっちゃになってしまっていたようだ。

 もし、烏森の天神社が延喜式神名帳に載るほど古い歴史を持つ神社であるとすれば、烏森村そのものの重要度が違ってくる。
 そこでふたたび、どうして村名が烏の森なのかという問題が浮かび上がる。
 烏森という名前は縁起がいいのか悪いのか。いつこの名前が付けられたのかという点も重要となる。平安時代にはそうだったのか、江戸時代以降のことなのかでは意味が全然違う。
  野田、厨郷、荒子、高畠、萬町、治田、烏森の中で、烏森は異質だ。他は開墾や田んぼにまつわる地名なのに、烏森はそうじゃない。萬町というのもちょっと別という感じがする。
 天神社の本来の祭神が分かれば一気に謎が解けそうな気もするけど、今となってはそれを知ることは無理だろう。
 烏森天神社が神名帳の針名神社かどうかは、私には判断がつかない。可能性としてはなくはないだろうし、面白い説ではある。
 瀬戸市の奥に尾治金連(カネノムラジ)を祀る金神社(こがねじんじゃ)がある。金連は、針名根連の兄の弟彦連の子に当たるとされる。
 針名根の父の尾綱根命は、針名根と一緒に犬山の針綱神社で祀られている。
 オトヨの館は緑区大高の火上山にあったとされる。その娘のミヤズヒメがヤマトタケルの残した草薙剣を祀るために建てたのが熱田社だった。
 ミヤズヒメの兄で、ヤマトタケル東征の副将軍だったタケイナダネは駿河の地で命を落とし、春日井市の内々神社(地図)で祀られることになった。
 タケイナダネの子供が尾綱根で、尾綱根の子が弟彦と針名根、弟彦の子が金だ。
 地理的なこというと、大高、熱田、春日井、犬山、平針、烏森、瀬戸ということになる。これらは時代を超えて線がつながるものなのかどうか。
 中途半端な考察なのだけど、この問題はいったんここで保留ということになる。あらたに思いついたことがあれば追記したい。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

烏森天神社はピンク本殿を持つ古社

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