中村区烏森(かすもり)にある天神社は、『延喜式』神名帳(927年)にある愛智郡針名神社か否か、が問題となる。 一般的にというか公式には天白区平針にある針名神社(地図)がそれに当たるということになっている。 しかし、天白区平針のあたりがかつて愛智郡だったかといえばそれは大いに疑問だ。あのあたりはどう考えても山田郡だろう(針名神社の旧地は現在地の北東1キロほどのところにあった)。山田郡であるならば、平針の針名神社がどれだけ古い歴史を持つ神社であったとしても『延喜式』神名帳の”愛智郡”針名神社ではあり得ない。平針の針名神社も立派で格式のある神社には違いなさそうなのだけど。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「『尾張志』に天神ノ社かすもりむらにあり、と『尾張国地名考』(正生考)”一楊庄烏森禅養寺門前にある氏神天神是なり、一楊庄野田厨郷と荒子、高田、万町、治田、烏森の七村は延喜の頃、新開地にて一円に伊勢大神宮の神戸御厨の地なり、針名、治田はみな開墾と云うことなり後世鎌倉以来わかれ独立してより、今は烏森の氏神と成りたまへり爰をもて愛知郡針名の神社は治田天神にて今烏森に座するとある。明治5年7月、村社に列格し明治40年10月26日指定村社となる。参考・針名神社は延喜式内社、国内神名帳に従二位針名天神という」
『愛知縣神社名鑑』が式内社の論社について触れるのは稀で、それだけ神社本庁としても烏森天神社にその可能性を見ているのではないかと思われる。 津田正生は『尾張國地名考』の中でこうも書いている。 「【度會延経曰】針名の社は尾治針名根連を祀るか 【或人曰】針名根連は天の火明尊十三世孫尾綱根命の子なり 【正生考】一柳庄(ひとつやなぎ)烏森村禅陽寺(禅宗)門前にある氏神天神是なるべし 【瀧川弘美曰】集説に平針村をいへるは非言なるべし平針は往昔山田の郡の地理にて愛知郡にあらず今平針を鳴海庄といふはも戦国以後の誤りなるべし」 この後、【正生考】として『愛知縣神社名鑑』が引用している部分を書いている。
『尾張国神社考』ではこういっている。 「【正生考】一楊荘烏森村(ひとつやなぎかすもり)禅養寺(禅宗)門前にある氏神天神是なるべし 【瀧川弘美曰】集説に平針村といへるは非言(ひがこと)なるべし。平針は往昔山田郡の地理にて愛知郡にあらず。いま平針を鳴海荘といふも戦国以後の誤なるべし 【正生考】一柳荘野田、厨郷(中郷)、荒子、高畑、万町、治田(八田)、烏森の七村は延喜の頃の新開の地にて、一圓に伊勢大神宮の神戸御厨の地也とかや。針名治田みな開墾の謂也。後世鎌倉以来村にわかれ獨立してより、今は烏森の氏神と成たまへり。爰をもて愛知郡針名神社は、治田天神にて、今烏森に座事を世俗はしらざる也。」
ほぼ同じような内容なのだけど要点をまとめるとこうなる。 集説(天野信景による尾張の神社研究書『本国神名帳集説』のこと。1707年成立)がいう平針村は間違い。平針村は愛智郡ではなく山田郡だ。 烏森村にある天神社が『延喜式』神名帳にある愛智郡針名神社である。 祭神は針名根連である。これは尾張氏の祖神である天火明尊十三世孫の尾綱根命の子に当たる。 烏森村の天神社は、禅陽寺(禅養寺)の門前社になっている。 針名や治田は開墾を意味する言葉で、野田、厨郷(中郷)、荒子、高畠、萬町、治田(八田)、烏森は延喜年間(901-923年)にあらたに開墾された土地で、後に伊勢の神宮の荘園、一楊御厨となった。 よって、『延喜式』神名帳の針名神社は治田天神に違いない、と津田正生は結論づけている。「世俗はしらざる也」と、なにやら自信たっぷりだけど、決定的な根拠でも握っていたのだろうか。
平針の針名神社は成立に関して不明な点が多く、『延喜式』神名帳の針名神社と言い切れないところは確かにある。地理的に愛智郡とするのは無理があるというのもその通りだ。 しかし、だからといって烏森の天神社がそれだと言われてもすぐには納得できない。根拠が弱いのではないかと思う点がいくつかある。 まず、治田あたりが延喜年間に新たに開拓されて、それにともなって天神社が建てられたとしたら、神社としては新しすぎるということだ。 『延喜式』の成立は927年だけど編さんは905年に始まっている。天神社がたとえ延喜元年の901年に創建されたとしても、そんなにできたてほやほやの神社を官社として神名帳に載せただろうかという疑問がひとつ。 祭神とされる尾治針名根は上にも書いたように尾張氏にとっての神であり、天皇家や中央朝廷との関わりは薄いローカルな神だ。 それに尾治針名根とすると時代が違いすぎるというのも気になる。 針名根連は、建稲種命(タケイナダネ)の孫に当たる。建稲種命は尾張国造初代の乎止与命(オトヨ)の子だ。日本武尊(ヤマトタケル)の妃になった宮簀媛(ミヤズヒメ)の兄が建稲種とされている。 針名根は仁徳天皇の大臣を務めたというから、年代でいうと400年代(5世紀)ということになるだろうか。延喜年間から見て500年近く前の人物ということだ。その人物を祭神として神社を建てたとすれば針名根の子孫ということになりそうだけど、このあたりは尾張氏の影響はあまり感じられない。 針名根は犬山の針綱神社(web)の祭神にもなっている(針綱神社もまた、創建のいきさつについてはよく分からない神社だ)。 尾張氏の系図を見ると、針名根には尾治弟彦連(オトヒコ)という兄がいるから(弟彦は美濃を開拓したという話がある)、針名根は次男坊だ。 更に言えば、このあたりでは巨大な古墳が見つかっていないというのが弱い。古墳時代のこのあたりは海だったか低湿地帯だったかで、古墳を築くような場所ではなかった。 平針は植田八幡社(地図)の境内に全長80メートルほどの前方後円墳がある。その古墳は針名根のものともいわれる。 治田、烏森あたりには古代の匂いといったものが感じられない。尾張氏や熱田社の影も薄い。 こういったことを考え合わせると、烏森の天神社が尾治針名根連を祀る針名神社という考えには必ずしも同意できない。 尾治針名根連とは無関係の村の氏神を祀る神社を延喜年間に創建して、それが官社と認められて延喜式神名帳に載ったのだというのなら、その可能性はなくはないか。その場合は、伊勢の神宮との関係が考えられる。 ちなみに、延喜年間の天皇は醍醐天皇(在位897-930年)だ。 醍醐天皇といえば菅原道真を右大臣に抜擢した後、藤原時平の偽報告を信じて道真を太宰府に左遷させた天皇だ。それが901年で、道真は903年に太宰府で亡くなっている。その道真を祀るために延喜年間にこの神社が創建されたという推理はさすがにちょっと無理があるか。
『尾張志』(1844年)には「天神ノ社 かすもりむらにあり」とあり、『尾張徇行記』(1822年)では「此社草創は知レズ、再建は寛文二丑年也」、『寛文村々覚書』(1670年頃)では「社三ヶ所 内 天神 八幡 神明 前々除 中郷村祢宜 孫大夫持分」となっている。 江戸時代には村にある神社のひとつという認識で、特別視されていなかったことがうかがえる。 再建の寛文二年は1662年になる。 祭神が菅原道真になったのは案外古いかもしれない。津田正生なども、天神はもともと天津神のことで菅原道真のことではないと、たびたび書いている。戦国時代から江戸時にかけて、天神信仰と道真信仰がごっちゃになってしまっていたようだ。
もし、烏森の天神社が『延喜式』神名帳に載るほど古い歴史を持つ神社であるとすれば、烏森村そのものの重要度が違ってくる。 そこでふたたび、どうして村名が烏の森なのかという問題が浮かび上がる。 烏森という名前は縁起がいいのか悪いのか。いつこの名前が付けられたのかという点もポイントだ。平安時代にはそうだったのか、江戸時代以降のことなのかでは意味が全然違う。 野田、厨郷、荒子、高畠、萬町、治田、烏森の中で、烏森は異質だ。他は開墾や田んぼにまつわる地名なのに、烏森はそうじゃない。萬町というのもちょっと別という感じがする。 天神社の本来の祭神が分かれば一気に謎が解けそうな気もするけど、今となってはそれを知ることは無理だろう。 烏森天神社が神名帳の針名神社かどうかは、私には判断がつかない。可能性としてはなくはないだろうし、面白い説ではある。 瀬戸市の奥に尾治金連(カネノムラジ)を祀る金神社(こがねじんじゃ)がある。金連は、針名根の兄の弟彦の子に当たるとされる。 針名根の父の尾綱根は、針名根と一緒に犬山の針綱神社で祀られている。 オトヨの館は緑区大高の火上山にあったとされる。その娘のミヤズヒメがヤマトタケルの残した草薙剣を祀るために建てたのが熱田社だったというのが通説となっている。 ミヤズヒメの兄で、ヤマトタケル東征の副将軍だったタケイナダネは駿河の地で命を落とし、春日井市の内々神社(地図)や西尾市吉良の幡頭神社などで祀られている。 タケイナダネの子供が尾綱根で、尾綱根の子が弟彦と針名根、弟彦の子が金だ。 地理的なこというと、大高、熱田、春日井、犬山、平針、烏森、瀬戸ということになる。これらは時代を超えて線がつながるものなのかどうか。 結論の出ない中途半端な考察なのだけど、この問題はいったんここで保留ということになる。あらたに思いついたことがあれば追記したい。
作成日 2017.11.18(最終更新日 2019.5.12)
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