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鳴海八幡宮


ただの八幡社ではないもうひとつの鳴海神社



鳴海八幡宮鳥居と拝殿

読み方なるみ-はちまん-ぐう
所在地名古屋市緑区鳴海町字前之輪23 地図
創建年不明
旧社格・等級等指定村社・八等級
祭神應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
月読尊(つくよみのみこと)
アクセス名鉄名古屋本線「鳴海駅」から徒歩約20分
JR東海道本線「大高駅」から徒歩約12分
駐車場 あり
電話番号052-621-4515
その他例祭 10月15日に近い土曜日・翌日曜日に神輿渡御と山車曳き
オススメ度**

 この神社は本当に八幡社なのだろうか?
 調べていくうちにだんだん分からなくなった。
 もちろん、八幡社には違いない。江戸時代に書かれた『尾張名所図会』(1844年)でも『尾張志』(1844年)でも應神天皇を祀る八幡社としている。けど、だからといって最初から應神天皇を祀る八幡社として創建されたとは限らない。八幡神は鎌倉期以降に流行った神で、それまで氏神を祀っていた神社が途中から八幡社になった例も多い。
 最初に疑問に思ったのは祭神の顔ぶれだ。應神天皇の母の神功皇后はいいとして、ニニギとタマヨリヒメとツクヨミが一緒に祀られているのはどういうことか。玉依姫(タマヨリヒメ)は八幡社で祀られる例があるにしても、ニニギとツクヨミはどこから来ているのだろう。明治以降にこのあたりにあった神社を合祀したということかもしれないけど、そういった情報は得られなかった。
 江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年)の鳴海村の項を見ると、神社は21社載っている。東宮大明神といわれていた成海神社、後の鳴海八幡宮の八幡社の他、諏訪大明神、神明、神明、八幡、天王、山神、権現、天神、浅間、山神、山神、山神、山神、山神、神明、神明、山王、山神、山神という顔ぶれだ。
 これらはほとんどが廃社になるか合祀されているから、このうちのどこかでニニギとツクヨミを祀っていたということだろうか。



 この鳴海八幡宮は、式内・成海神社の別宮だという。それがまた話をややこしくしている。
 別宮というのは、本社に次ぐ地位の神社で、摂社よりも上に位置づけられるものだ。熱田社と別宮・八劔社のように本社と同等に扱われることもある。
 成海神社の創建は飛鳥時代の686年でほぼ間違いないと思われる。ヤマトタケルとミヤズヒメの古事にちなんで鳴海の地に建てられたとされる。
 それに対して鳴海八幡宮の祭神の應神天皇、神宮皇后、ニニギ、タマヨリヒメ、ツクヨミはヤマトタケルや尾張氏ゆかりの神ではない。八幡の神が後付けだとして、本来の祭神は何だったのか。
 この神社は、いつ誰が創建したのか。どういう経緯で別宮となったのか。最初から別宮として創建されたのか。そのあたりがまったく見えてこない。



『尾張志』(1844年)にはこうある。
「鳴海むらにあり應神天皇を祭る創建の年月定かならすいにしへ神領ありけるが今は絶えたり弘治天正などの証状に成海神社とひとしく此社号も見えて並々ならさし社なる事も知られたり神主久野陸奥守と云」
『尾張名所図会』(1844年)ではこうだ。
「駅の南、善之庵村(ぜんのあんむら)にあり。祭神應神天皇。此社も鳴海神社と称するは、東宮大明神の別宮なるがゆえなり」
 どちらも祭神は應神天皇一柱で、成海神社(鳴海神社)とも称し、成海神社の別宮といっている。
 善之庵村は鳴海村の南にあって支村という位置づけだった。今の字名の前之輪はここから来ている。
 今昔マップを見ると、南の大高村と地続きのように見えるのだけど、江戸時代までは鳴海村に属していたようだ。



 鳴海八幡宮がある場所は、かつて年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれた海辺に当たる。平安時代以降は鳴海潟と呼ばれた。
 成海神社の元宮(地図)は、鳴海潟を挟んで北の海辺の高台で、鳴海八幡宮と向かい合う形だった。この位置関係からしても二社は対の関係だった可能性を感じさせる。
 鳴海八幡宮が建っている場所は、弥生時代に集落があった場所で、前之輪遺跡と名づけられている。すぐ北にある緑小学校のグラウンドから弥生土器なども見つかった。
 ここは当時ではやや珍しく、海岸に集落があったと考えられている。弥生時代の集落は台地上の高台にあることが多い。
 名古屋地区は海進の影響を受けやすい土地で、縄文期は名古屋市内の西半分は完全に海の底だった。弥生時代にいったん海面が下がって海岸線が後退したものの、古墳時代から平安時代にかけて再び海進してきて、また西の一部が水没したと考えられる。この地方の人たちが本格的に平地に進出して田畑を開拓するのはそれ以降のことだ。古墳や古い神社などの分布をみるとそれがよく分かる。



 鳴海八幡宮に関する一番古い記録としては、鎌倉時代前期の1232年に、久野家初代が社職となったというものがある。
 その頃境内にはすでに楠(クスノキ)の大木があったといい、今もその楠は御神木として残っている。推定樹齢は1000年を越えるというから、植えられたのは平安時代だろうか。
 創建は平安時代までさかのぼり、式内・成海神社の別宮ということであれば、『延喜式』神名帳(927年)に載っていてもおかしくない。
『尾張徇行記』(1822年)は、【祠官久野越後書上】に八幡祠は「延喜式内河原神社と云」と書いている。愛智郡川原神社は川名の川原神社とされているのだけど、鳴海八幡の神官の久野氏は鳴海八幡が式内の川原神社だといっているということだ。
 確かに川名の川原神社も不確かなところがあって絶対確実とはいえないのだけど、では鳴海八幡が川原神社かとなるとそれはまた別だ。そう主張している人は他にもいるのだろうか。私としては判断がつかないので保留とする。
『愛知縣神社名鑑』によれば、1557年に今川義元が成海神社と鳴海八幡宮に神田を寄進したとあり、1589年には山口長次郎重政(織田家家臣で星﨑城城主)が両社に社領を寄進したという。
 両社を同等に扱って寄進しているということは、やはり鳴海八幡宮と成海神社はセットとして考えられていたということだろうか。



『尾張志』にある「天神ノ神」の項も気になった。
「同村にあり 祭神 成海神社と同神也 朱雀元年鎮座の由」
 朱雀元年というのは朱雀天皇が即位した年(930年)ではない。朱雀天皇時代の元号は、延長、承平、天慶だ。
 朱雀というのは九州年号だとか、私年号だとか、いろいろ説があってはっきりしたことが分からない。天武天皇が定めた朱鳥の別称ではないかという説もあり、そうだとすれば朱雀元年は686年ということになる。これは成海神社の創建年と同じだ。
 現在の鳴海八幡宮の境内社の中に、天神社やそれに当たるような社はない。ヤマトタケルやミヤズヒメを祀ってもいない。
 少し変わったところでは、武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)を祀る高良社や、稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀る香良洲社、瀬織津比咩神(せおりつひめのかみ)と気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)を祀る祓戸社がある。
 高良神社といえば、福岡県久留米の高良山にある筑後一宮・高良大社(web)が総本社だ。祭神の高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)は武内宿禰のことという説がある。八幡社との関係でいうと、京都の石清水八幡宮(web)の摂社に高良神社がある。
 稚日女尊は機織りの女神だ。高天原で神の衣を織っていたら、スサノオが暴れた巻き添えを食って死んでしまったと『日本書紀』にある。
 もともと三重県鳥羽市の志摩国一宮・伊射波神社(いざわじんじゃ/web)に鎮座していたのが、神功皇后が三韓討伐で朝鮮半島に渡ろうとしていたとき神戸に現れて、自分はここにいたいというので建てたのが式内・生田神社(web)とされている。
 瀬織津比咩と気吹戸主は、速開都比咩、速佐須良比咩とともに祓戸四神とされる神で、罪穢(けが)れを祓(はら)う神だ。『古事記』、『日本書紀』には登場せず、『延喜式』の大祓詞(おおはらえのことば)の中に出てくる。
 それぞれ役割が決められていて、瀬織津比咩はもろもろの罪穢れを川から海へ流し、速開都比咩が海の底で待ち受けてそれを飲み込み、気吹戸主は根の国、底の国に息吹を放ち、速佐須良比咩が罪穢れをさすらってなくす。
 瀬織津比咩はアマテラスの荒魂ともされ、伊勢の神宮では別宮・荒祭宮(web)の祭神とされている他、兵庫県西宮の廣田神社(ひろたじんじゃ/web)のかつての祭神が瀬織津比咩だったともいう。
 気吹戸主を単独で祀っているところは少なく、京都府京丹後市の伊吹神社などがある。
 名古屋では馴染みのないこれらの境内社があることからしても、鳴海八幡宮が並みの八幡社ではないことがうかがい知れる。



 江戸時代まで成海神社と鳴海八幡宮は同じ日に例祭を行い、神輿を渡すなど、たいへんな賑わいを見せたという。
『尾張名所図会』はその様子をこう語る。
「例祭八月十五日。神輿を北の方の森へ遷幸(せんこう)し奉り、駅々より笠鉾(かさほこ)及びねり物を多く出して、駅中を引渡し、頗る(すこぶる)壮観にして、旅客の目を喜ばしむ。総て近郷の祭礼、此式に慣(なら)ひて笠鉾を出せるもの多し」
 しかし、江戸時代中期の元禄13年(1700年)に、両神社のあいだで祭礼をめぐっていざこざが起きてケンカ別れとなり、以降は別々の日に祭りを行うようなった。鳴海八幡宮を表方、成海神社を裏方と呼んでいる。
 現在は両神社の関係は良好のようで、例祭日こそ別なものの、それぞれが持つ山車を引き回して両社の間を往復している。
 表裏あわせて九輌の山車が揃う姿は見事なものだろう。
 鳴海八幡宮の祭礼では、猩々(しょうじょう)と呼ばれる赤い顔の鬼のような神様が登場する。赤鬼のようであり、天狗のようでもあり、秋田のなまはげにも少し似ている。
 もともとは中国の古典や仏教の古典などに登場する妖怪のたぐいだったのが日本に入ってきて様々な形、姿に変化していった。酒好きということで赤ら顔になったとも考えられる。
 初めて記録に登場するのは江戸時代中期の1757年、『尾陽村々祭礼集』とされる。どういうきっかけで始まったのかはよく分からない。
 鳴海は江戸時代、東海道の鳴海宿があったところで、祭りが賑わったのはそのせいもあった。一時は熱田方面、豊明方面、豊橋や知多方面まで猩々祭りが広がっていったという。酒造業との関連を指摘する説もある。
 近年は緑区くらいにしか残っていないのかもしれない。名古屋の人間なら名古屋まつりなどで見たことがあるという人も多いんじゃないだろうか。



 この神社は謎が多くて奥が深い。成海神社と対の関係だったとすれば、ずいぶん差がついてしまった感がある。
 鳴海八幡宮が復権を願っているかどうかは分からないけど、もう少し歴史が明らかになってもいいとは思う。




作成日 2017.4.22(最終更新日 2019.3.30)


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