正福寺に隣接する神社で、鳥居の額に「大杉大神」とあるので、一応、これを神社名としておく。 鳥居裏に平成五年正福寺とあるので、正福寺の寺院内神社と思ってよさそうだ。いろいろな神が祀られているのだけど、本体は稲荷社らしい。
洞雲山正福寺は曹洞宗の寺で、本尊の木像千手観世音菩薩坐像の他に、観音堂に弘法大師作と伝わる十一面観世音菩薩も所有している。 『尾張志』(1844年)はこう書いている。 「法華寺町南にありて洞雲山と号し永安寺の末寺なり僧永察建立して清須にありしを慶長年中今の所にうつせり 観音堂 十一面観音の像を安置す 弘法大師の作といひ伝ふ」 もともと清須に建てられたものを名古屋城ができたときに清須越でここに移されたということだ。 大杉大神は清須時代からあったものなのか、こちらに移ってきてから祀られたのかは分からない。名前通りであれば、大きな杉に宿る神を祀ったということになる。 稲荷社との関係もちょっと分からない。大杉大神を稲荷社で祀っているということだろうか。 社前の提灯には、「龍頭大神」・「縞龍大神」・「元録大神」とある。 龍神も祀られていることは分かるけど、元禄大神は分からない。 社の隣には「出世不動明王」の石仏も祀られている。
栄(さかえ)は名古屋を代表する繁華街で、名古屋の人間で知らない人はいないと思うけど栄の名前の由来はあまり知られていない。 江戸時代前期の明暦年間(1655-58年)頃に栄村(さこむら)の人間が今の栄あたりに店を出して商売を始めて栄町(さかえまち)と称するようになったのが始まりだ。 栄村があったのは今の栄生町(さこちょう)で、栄町が生まれた場所ということで「栄生」と呼ばれるようになった。 栄町が正式に誕生したのは明治4年(1871年)のことだ。 新栄(しんさかえ)は文字通り新しい栄という意味で、名古屋城下が発展するにつれて城下が東へ伸びてできた町だ。 もともとこのあたりは寺町で、名古屋城下と岡﨑をむすぶ飯田街道(駿河道)沿いに名古屋城の防衛も兼ねて家康が多くの寺を移築させたことに始まる。同時に、街道沿いにはたくさんの足軽も住まわせた。後に門前町として発展し、町屋が増えて賑わうようになる。 名古屋城以前の歴史についていえば、ここは熱田台地の北東部で、古くは南の上前津や鶴舞公園のあたりまで深く海が入り込んでいた。 少し南東にある白山神社は白山神社古墳の上に建つ神社で、創建は奈良時代初期の712年と伝わる。 正徳寺西側には精進川が流れていた(明治になって新堀川として改修された)。
今昔マップで明治中頃(1888-1898年)以降の変遷を辿ってみると、このあたりの大きな変化がよく分かる。 明治期にはまだ多くの寺が残り、墓地が散在し、樹林や農地、桑畑などが広がっていた。 後に寺の一部は移築され、墓地は平和公園にまとめられることになる。 このあたりは南小川町に属していただろうか。南小川町は明治11年(1876年)に宮出ノ切と東瓦町の一部が合併して成立した。 宮出ノ切は江戸時代中期の1779年にできた町で、熱田から来た人が初めて家を建てて住みついたことから呼ばれるようになったという。 東瓦町は名古屋城築城の際に駿府から移り住んだ瓦職人が代々瓦を作っていたことから町名になったとされる。 昭和17年に流川町の一部を編入した。正徳寺前にある流川地蔵尊は、この流川町と関係がありそうだ。 第二次大戦の名古屋空襲ではこのあたりも焼け野原になった。1947年(昭和22年)の地図では広大な空白地ができている。 それでも1960年代以降に復興して都市部に組み込まれた。
正徳寺内の神社であればお寺の人に訊ねればもう少し詳しいことも分かると思うのだけど、現状分かるのはここまでだ。 聞き込み調査などで分かったことがあれば追記したい。
作成日 2018.9.13(最終更新日 2019.3.14)
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