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八幡社(枇杷島)


誰がどこに何故建てたのか



枇杷島八幡社

読み方はちまん-しゃ(びわじま)
所在地名古屋市西区枇杷島3丁目9 地図
創建年1529年(戦国時代中期)
旧社格・等級等指定村社・十二等級
祭神應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
竹内宿禰(たけうちのすくね)
アクセス名鉄名古屋本線「東枇杷島駅」から徒歩約7分
駐車場 なし
その他 
オススメ度

 ここは江戸時代に枇杷島村だったところで、現在の名古屋市西区枇杷島と枇杷島町あたりが村域だった。
 庄内川を挟んだ北西は清須市西枇杷島町になっているので少しややこしい。あちらは江戸時代は下小田井村だった。
『尾張志』(1844年)は枇杷島村の神社について「八幡社 神明社 白山社 枇杷島村にあり みな享禄二己丑の創建也」と書いている。
 享禄2年は1529年だから、戦国時代の半ばだ。信長は1534年生まれなのでまだ生まれていない。
 どうしてこの年に八幡、神明、白山の三社を同時に建てたのか。その年の枇杷島村に何があったのか。そのあたりの事情がよく分からない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)は、「社三ヶ所 内 八幡 神明 白山 当村祢宜 筑後持分 社内五畝五歩 前々除」と書く。
『尾張徇行記』(1822年)にはこんなことが書かれている。
「八幡祠神明祠白山祠界内五畝五歩前々除、府志曰、三祠倶在枇杷島村、後奈良院永享二巳丑年建之 社司神部式部」
 永享2年は1430年だから、『尾張志』とは違う見解ということになる。『尾張名所図会』(1844年)も「永享二己丑年の創建なり」としているのだけど、永享2年は庚戌で、己丑なら享禄2年なので、『尾張志』の享禄2年(1592年)が正しいのではないかと思う。
『尾張徇行記』にはこんな記述もある。
「八幡祠、元当所ヨリ二十町許北ノ方ニアリシカ、慶長年中ココニ遷座ス」
 この八幡社は「元当所ヨリ二十町許北ノ方ニアリ」と書いているけど本当だろうか。1町は約109メートルだから、20町というと2キロ以上北ということになる。それは上堀越村か、もしくは庄内川の川向こうの下小田井村か中小田井村で、枇杷島村ではない。八幡、神明、白山が1529年に創建されたということと矛盾しないのか。
 神明、白山は、神明社白山社合殿地図)として庄内川の堤防上にある。この神社の経緯についてもよく分からない部分があるのだけど、おそらく枇杷島村三社のうちの二社があわさったものだろう。
 八幡社の北東480メートルほどのところに男女守稲荷神社地図)があり、その場所が八幡社の旧地という話がある。慶長年中の1612年に現在地に移ったと社伝はいう。
 どちらの話が本当なのか判断がつかない。二度遷座したという可能性もあるのか。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書く。
「社伝に享禄二年(1529)の創祀という。当時の社地は鎌倉街道筋で、西の庄内川に渡船場ありと、源頼朝筑紫の宇佐八幡宮の神霊を鎌倉鶴ヶ丘に迎えんと街道通過の際、清浄なる土地を撰び、分霊を安置し一泊する。土地の人々その所に道祠を建て八幡社を崇め祀る。慶長十七年(1612)現地に遷す。寛永年間(1624-1643)藩主義直、鷹狩りをこの地で催す。獲物多く以来藩主の崇敬あつく狩り度毎参拝を例とした。鷹八幡の俗称あり。明治5年、村社に列格し、明治40年10月26日、指定社となる。」



 意味不明だ。
 旧地は鎌倉街道沿い? 鎌倉街道がどこを通っていたか正確には分かっていないものの、ここより南の中村区を西北から東南に向かって斜めに通っていたというのが一応定説となっている。あま市の萱津から庄内川を渡り、東宿、露橋、古渡を結び、その先はいくつかに道が分かれていたようだ。
 鎌倉街道沿いにあったとしたらまた話が全然違ってくる。
 更に「源頼朝筑紫の宇佐八幡宮の神霊を鎌倉鶴ヶ丘に迎えんと街道通過の際、清浄なる土地を撰び、分霊を安置し一泊する。土地の人々その所に道祠を建て八幡社を崇め祀る」というのも訳が分からない。そんな話は聞いたことがない。
 源頼朝が九州の宇佐八幡宮(web)から勧請して鎌倉の鶴岡八幡宮(web)を建てたわけではないし、頼朝が自ら九州の宇佐まで出向いていったなどということもない。その道々で分霊したということもないはずで、鎌倉街道沿いの道々に八幡祠を建てたという話も聞かない。
 枇杷島の南を通っていたのは美濃路で、北なら稲生街道だろう。庄内川の川向こうには岩倉街道もあった。
 鎌倉街道は鎌倉幕府ができて以降、鎌倉に通じる道の総称をそう呼んだだけで、正式な街道があったわけではない。鎌倉と京都を結ぶメインの通りは鎌倉往還などと呼ばれた。
 頼朝は1190年に千騎ほどの兵を引き連れて京都に上洛している。出発したのは10月3日で、京都に入ったのは11月7日だった。
 その途中の10月25日に知多の野間大坊(大御堂寺/web)に寄っている。ここで父の義朝が家臣に殺されて葬られているので、その墓参りのようなものだった。
 10月27日は母親の故郷である熱田社(web)にも参拝している。頼朝の母の由良御前は熱田大宮司の藤原季範の娘で、頼朝は母親の実家の熱田で生まれたという話もある。
 帰り道は16日で鎌倉に戻った。
 鎌倉幕府の成立は1192年というのが定説だったけど、最近は頼朝が守護・地頭を置く権利を得た1185年を鎌倉幕府の成立とする考えもある。
 千騎の兵がこの日数で往復できたということは、1190年当時にはすでに鎌倉街道はかなり整備されていたと考えてよさそうだ。
 鶴岡八幡宮を建てたのは頼朝と思っている人が多いかもしれないけど実際は少し違う。1063年に源頼義が京都の石清水八幡宮(web)から勧請して由比ヶ浜に分社を建てたのが始まりで、それを1180年に頼朝が現在地に移したということだ。



『愛知縣神社名鑑』が書いている「寛永年間(1624-1643)藩主義直、鷹狩りをこの地で催す。獲物多く以来藩主の崇敬あつく狩り度毎参拝を例とした。鷹八幡の俗称あり」というのは事実だろう。
 藩主が鷹狩りをするとなると村人たちも借り出されるので、年貢を免除されたりもしたようだ。
 今でも鷹八幡と呼ばれている。鷹匠がこの神社を関わっているという話もある。
『尾張名所図会』は、「鷹の諸病、或は鷹のそれたるにも祈願すれば、必霊験著しければ、鷹を飼う人殊に信仰せり」と書いている。



 1529年に八幡、神明、白山が同時に創建されたということを信じていいのかどうか分からないのだけど、八幡社はもともと別の場所にあって江戸時代前期に現地に移されたというのは本当なのではないかと思う。それはやはり枇杷島村の中でのことだろうから、男女守稲荷が旧地というのが実際のところなのではないだろうか。
 江戸時代に入って東海道の脇街道として美濃路が整備されて街道沿いに集落ができたのでそちらに移したと考えられる。
 今昔マップの明治中期の地図を見ると、美濃路沿いに集落ができていて、その北と南は広大な田畑が広がっている。
 庄内川には中州があって、そこにも集落があり、中島と呼ばれていた。尾張名所のひとつとされた枇杷島橋は、枇杷島村と中島、中島と下小田井をつなぐ橋だった。下小田井には日本三大市場のひとつの青果問屋があった。それもあって、このたりは大変人通りが多いところだったという。
 中島の歴史については黒體龍王大神社のページに書いた。
 明治から戦前にかけての八幡社は現在より少し東の枇杷島学区集会場まで境内地だったようだ。戦後になってかなり縮小されたしまったことが地図からも見てとれる。
 枇杷島小学校も明治41年(1908年)までは八幡社の境内にあった。
 隣接する清音寺については覚明霊神絡みで御嶽社(枇杷島)のページに書いた。
 枇杷島に伝わる梵天まつりについては神明社白山社合殿のページに書いた。



 枇杷島村の八幡、神明、白山は誰が何の目的で建てたのか、という疑問が最後まで残った。戦国時代中期にこの場所にこの三社を建てた目的は何だったのか。
 結局のところ、その問いに対する答えは得られない。




作成日 2018.6.9(最終更新日 2019.5.15)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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