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明神社(諸ノ木)

西尾伊右衛門はどうしてこの地で智鯉鮒大明神を祀ったのか

諸ノ木明神社

読み方 みょうじん-しゃ(もろのき)
所在地 名古屋市緑区諸ノ木 地図
創建年 不明(江戸時代末か)
旧社格・等級等 不明
祭神 不明(日子穂々手見命?)
アクセス 諸ノ木口バス停」から徒歩約5分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 幕末に西尾伊右衛門が鳴海宿の本陣をやめて鳴海村諸木に移住して新田を開発し、屋敷神として智鯉鮒大明神(知立神社 / web)を勧請したのが始まりという。
 鳴海宿の本陣は初め、浅岡吉右衛門の家が務めていた。始めたのが1615年とされる。
 後に西尾伊右衛門に代わり、代々この家が務めていたのだけど、どういう理由からか幕末になって西尾家が本陣をやめて、鳴海の山奥に引っ込んで新田開発を始めた。何か思うところがあったのか、経営的に行き詰まったのか。
 この後を継いだのが下郷家(千代倉)で、下郷家については天満宮(細根)のページに書いた。細根山に小山園という別荘地を築いたのが千代倉二代の知足(ちそく)で、芭蕉もよく訪れた場所だ。
 下郷家はもともと下里と称しており、江戸時代が始まる少し前の1597年に下里次郎大夫信種が桑名から鳴海に移住して酒造りを始め、それで財を成した。
 同じ頃に西尾四朗左ヱ門が美濃から移住したとされる。
 西尾伊右衛門は知足などとともに鳴海六歌仙と呼ばれた寺島菐言(てらしまぼくげん 1646-1736年)の子孫で、13世に当たる。

 諸木というのは鳴海村の中心から見て平手新田の更に向こうの奥地で、こんなところには誰も住んでいなかった。
 丘陵地と丘陵地の間のわずかな平地を農地として開墾したようだけど、この土地の可能性を感じたからというよりも、もともと耕作地にできるところが少なかった鳴海村でここしかもう残っていなかったからじゃないかと思う。
 幸いにも少し東には巨大な溜め池の勅使池があったので、水を引く手間は省けた。ただし、利権の問題ですんなり勅使池の水を使わせてもらえたかどうかは分からない。
 勅使池は戦国時代の1528年(大永8年)に後奈良天皇が左中将経広卿を勅使として派遣して掘らせた池と伝わっているのだけど、一説では非常に古い池ともされる。
 地域としては沓掛(くつかけ)に当たり、後に沓掛新田が開発された。
 ついでに書くと
大府市の伊右衛門新田は正徳年間(1711-1716年)に西尾伊右衛門が開墾したもので、西尾伊右衛門家としては諸木が初めての新田開発ではなかった。
 今の共和はかつての共和村で、追分、追分新田、木之山、伊右衛門新田、又右衛門新田、八ツ屋新田が合併してできた村だ。
 ちなみに旧鎌倉街道は諸ノ木の南にある濁池の南を通っていたと考えられている。

 こういった状況を踏まえた上で明神社を考えてみるのだけど、西尾伊右衛門が知立神社から智鯉鮒大明神を勧請して屋敷神として祀った理由がよく分からない。
 知立神社は三河国二宮の式内社で、ヤマトタケルが東征の途中に知立(古くは智立)で戦勝祈願をして、帰りに鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、玉依比売命(タマヨリヒメ)、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコ/神武天皇)を祀ったのが始まりと社伝はいう。
 初め、1キロほど東の高地にあったものを戦国時代の1573年に今の東海道筋に移したとされる。
 江戸時代は東海道三社のうちのひとつに数えられるほどだったので、当然、西尾伊右衛門もよく知っていただろうし、実際に参拝したことがあったかもしれない。
 ただ、江戸時代は智鯉鮒大明神と称しており、それをどういう神と認識していたのかは分からない。ウガヤフキアエズなどに当てたのは明治以降のことだ。
 諸ノ木明神社の祭神は現在、日子穂々手見命(彦火火出見尊)という情報があるのだけど定かではない。ヒコホホデミというより山幸彦といった方が分かりやすいだろう。
 鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)の父で、神武天皇(神日本磐余彦尊)の祖父に当たる。父は天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)で、母は大山祇神(オオヤマツミ)の娘の鹿葦津姫(カヤツヒメ/コノハナサクヤヒメ)だ。山属性と海属性の両方を併せ持つ神という言い方も出来る。
 おそらく、西尾伊右衛門はそういった日本神話を意識していたわけではないだろうけど、それにしても山奥に引っ込んで新田開発を始めて屋敷で祀る神として智鯉鮒大明神を選んだ意図というのはやはり分からない。本人が好きだったからといわれればそういうものかと納得するしかない。
 あるいは、もっと深い理由があったのだろうか。

 諸ノ木の「もろ」は杜松(ネズ/としょう)の別名で、このあたりにネズの木があったことに由来するのではないかと思う。
 ヒノキ科の常緑樹で、山地の日当たりのいい斜面に生え、高さは15メートルほどになる。
 ネズは杖の材料としてよく使われているのだとか。

 明治初年の鳴海村絵図では諸ノ木の集落に数軒の家が描かれているそうだけど、今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てもその状況は変わっていない。
 この数軒で狭い土地を耕していたのだろう。鳴海の本陣家がどうしてそんなことになってしまったのか。
 昭和7年(1932年)の『郷土資料』によると戸数19戸、人口100人とあるので、少しずつは増えていったことが分かる。
 戦前から戦後にかけての地図がないのでその頃の状況を知ることは出来ない。
 1959-1960年の地図を見ると、道沿いを中心に家が増えている。
 ようやく住宅地らしくなるのは1980年代に入ってからで、1992-1996年の地図に初めて鳥居マークが描かれる。

 神社はこんもりとした高台にあって古墳を思わせるのだけど、そういう話は聞かないので違うのか。
 神社があるのはかつての集落からやや外れた西南なので、西尾伊右衛門の屋敷神であったとすると、最初からここにあったわけではないのだろう。
 向かって右手の社がやや大きく高い位置にあり、その隣に少し小振りの社がある。その左の石には「正一位稲荷大明神」と刻まれ、一番右にある石には「大山袛神」と彫られている。
 中央の社が主祭神だろうから、日子穂々手見命が祭神ということであればそうだろう。もうひとつの社は秋葉社のようだ。
 社の裏手に回ったところに稲荷の鳥居があり、地面近くに小さな穴が掘られている。
 本社の高台から一段下がったところにはキツネ像、「医薬神 少名彦命 大己貴命」と彫られた石、二宮金次郎の石像がある。
 今も西尾伊右衛門の子孫の方がこの地に住んでこの神社を守っているのかどうかは分からない。諸ノ木も住宅地になって人が増えたから町内で守っているだろうか。
 かつては祭礼のときに馬の塔も出たそうで、旧暦2月7日にはお日待ちをする風習もあったという。今はもう子供の獅子が出るだけになってしまったと『緑区の歴史』(昭和59年)は書いているけど、それさえもなくなってしまったかもしれない。

 

作成日 2018.11.22(最終更新日 2019.4.10)

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