御器所八幡宮

御器所八幡宮はカッコイイ八幡社だと思う

御器所八幡宮の鳥居と社殿

読み方 ごきそ-はちまん-ぐう
所在地 名古屋市昭和区御器所四丁目4-25 地図
創建年 伝850年頃(平安時代前期)
社格等 郷社・八等級
祭神

八幡大神(はちまんおおかみ)
八劒大神(やつるぎのおおかみ)
五男三女神(ごなんさんじょしん)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
山王大神(さんのうのおおかみ)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
彌豆波能女命(みとはのめのみこと)
菊理媛命(くくりひめのみこと)
木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)
高蔵大神(たかくらのおおかみ)

アクセス

・地下鉄鶴舞線「荒畑駅」から徒歩約12分。
・無料駐車場 あり(無料)

webサイト 公式サイト
オススメ度 **

 平安時代前期の850年頃、第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の勅願所(ちょくがんしょ)として熱田神宮鬼門を守護するために創建されたという言い伝えがある。
 御器所(ごきそ)の地名は古く、鎌倉時代に書かれた歴史書『吾妻鏡』にも記述があり、この地で熱田神宮の神事のときに使う土器を焼いていたことから名付けられたとされる。
 室町時代中期の1441年、佐久間家勝らによって社殿が修繕されたという棟札(むなふだ)が見つかっている。
 このときは八所大明神(はっしょだいみょうじん)と称していた。
 鎌倉時代以降、この地は佐久間氏の領地だった。承久の乱(1221年)のとき、幕府側について戦功を上げた家盛が恩賞として御器所の地を与えられたことに始まる。
 家盛は鎌倉幕府の御家人となり、後鳥羽上皇側について戦った父の朝盛(とものり)も許され、一族と共にこの地にやってきて定住することになった。
 家勝が八所大明神を修繕した1441年は、御器所西城を築いた年でもある。御器所八幡宮から見て北西約300メートル、現在尾陽神社がある場所にその城はあったとされる。
 ちなみにこの佐久間氏は桓武平家の流れを汲む名門で、戦国時代には織田家の家臣となり、信長の重臣だった信盛(のぶもり)などを輩出している。
 このような流れを見ると、御器所八幡宮の原型は遅くとも鎌倉時代にはできていたと考えてよさそうだ。
 明治の神仏習合で分離させられた醫王山神宮寺は、嵯峨天皇の遺志を継いで息子の仁明天皇が850年に創建されたとされている。熱田神宮の別当補佐だった高野山の僧・成惠僧都が熱田神宮の鬼門除けとして建て、1304年に落雷で焼失したのち、御器所に移された。
 八所大明神と神宮寺を合体させたのも、1441年、家勝による。
 八幡神社となるのは江戸時代前期以降のこととされる。

 八所大明神の八所とは何を指すのか。
 いろいろな説があって名前の由来はひとつではない。通常、八柱の神を祀るからというのが多いのだけど、神仏習合時代特有の神かもしれない。
 御器所八幡宮の場合は、祭られている五男三女神(ごなんさんにょしん)のことを指している可能性が高そうだ。
 アマテラスとスサノオの誓約(うけい/占いのこと)で生まれた正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)、天之菩卑能命(アメノホヒ)、天津日子根命(アマツヒコネ)、活津日子根命(イクツヒコネ)、熊野久須毘命(クマノクスビ)、多紀理毘売命(タキリビメ)、市寸島比売命(イチキシマヒメ)、多岐都比売命(タキツヒメ)を五男三女神という。
 神社の創建をいつ誰が行ったのかがはっきりしないため、初めに祀った神を特定することは難しい。
 古い時代に熱田神宮へ神器を提供していたというなら尾張氏とも関わりがあるに違いないけど、そのあたりのことはよく分からない。

 創建のいきさつがどうであれ、江戸時代以降は八幡神社として歴史を重ねてきたということで、とても八幡らしい八幡という印象を受けた。正統派二枚目というか、正統派八幡神社だ。
 江戸時代まではもっと境内も広く、深い杜に囲まれていたという。その頃の名残がまだ少し残っているように感じられた。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

御器所八幡宮は八幡らしい八幡社と感じた
御器所八幡宮再訪であらためていい神社だと思う

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