神社の由緒や歴史については公式サイトに詳しく書かれている。 ただ、ちょっと分からないのは、創建を1615年としながらも、1617年に成瀬隼人正成が徳川家康の命で尾張徳川家の附家老となり、犬山城主になった後、この地の林を任され、それを管理する人間をここに置き、その人々が産土神として神明社を建てた、としている点だ。 それらの人々がこの地に移り住んだのが1617年だとすれば、1615年に神社を建てることはできない。 そこに至るまでの経緯を少し整理しておいた方がよさそうだ。
歴史に興味のある人なら犬山城(web)といえば成瀬家というのはよく知っていると思う。近年まで成瀬家の個人所有だったことも有名だ。では、犬山城を建てたのは誰でしょうという問いに答えられるだろうか。 犬山城は成瀬氏が建てたものではない。もともとは織田家が建てた城だ。 室町時代中期の1469年というから応仁の乱の最中に、岩倉織田氏当主・織田敏広の弟の広近が砦を築いたのが始まりとされる。 岩倉織田家が力を失い、代わって台頭した清洲織田氏の奉行家だった織田信秀(信長の父)で、その弟の信康が1537年に移って改築した。現存する天守の二階部分まではこのときのものと考えられている。 信康が斎藤道三との戦いに敗れて討ち死にした後、息子の信清が城主になるも、信長と対立して甲斐に逃亡。以降は池田恒興や織田勝長などが城主を務めた。 本能寺の変(1582年)の後、尾張国の領主となった信長の息子の信雄のものとなる。 小牧長久手の戦い(1584年)では秀吉方の本拠となった。 関ヶ原の戦い(1600年)までは様々な人間が城主となり、江戸時代には平岩親吉が犬山の領主として犬山城主となった。 平岩親吉は家康と同じ三河出身の同い年で、家康が人質になっていたときから苦楽を共にした仲で信任も篤かった。尾張藩初代藩主の義直の守り役として尾張藩附家老も務めた。 本来であれば平岩家がそのまま尾張藩附家老と犬山藩主を世襲していくはずだったのが、平岩親吉に跡取りがいなかったために家が廃絶となり、代わって成瀬家がその役を引き継ぐことになった。 平岩親吉が死去したのが1611年で、成瀬正成が尾張藩附家老ならびに犬山城主になったのは1617年のことだ。6年間は親吉の甥の吉範が犬山城主を務めた。 やはり、1615年に成瀬家の同心が神明社を建てたという話とは合わない。創建年の間違いか、建てたのは成瀬家の同心ではなかったか。 同心というのは武家の配下の下級武士のことをいう。同心が勝手に神社を建てられたかどうか。もし同心が建てるにしても、主家の成瀬家の許可なしには難しかったのではないか。 この林は御林と呼ばれ、非常時の伐採用だった。最初同心を10名住まわせて管理監督をさせ、後に10人増やして20軒になったことから廿軒家といわれるようになったという。 しかし、武士階級の人間は城下に住むのが基本で、村に暮らすというのは例外的なことだ。成瀬家がここに同心を住まわせたのは、名古屋城に万一のことがあった場合、藩主を密かに逃がすための手助けをするためではなかったのかという話がある。名古屋城北にはそういった役割の土居下同心が配されていたというのはよくいわれていることで、清水、大曽根を通り、廿軒家で成瀬家の同心たちが加わるという手はずではなかっただろうか。 その先はそのまま水野街道を行くのではなく南下して山口街道を信州方面に向かうルートが想定されていたともいう。三軒家、四軒家にも成瀬家の御林があり、管理する人間が置かれていた。 それにしても何故、山の神でも木の神でもなくアマテラスの神明社だったのだろう。最初から本当に神明社だったのかどうか、やや疑問が残る。
村の区分としては小幡村の内で、小幡村出郷廿軒家と称された。やや特殊な存在の集落にある神社ということで、江戸期の書の小幡村の項にある神明社がこの廿軒家神明社のことなのか判断がつかない。 書き出しておくと以下の通りだ。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社拾弐ヶ所 社内三町四反三世弐拾壱歩 内 壱町弐反五畝弐歩 備前検除 弐町壱反八畝拾九歩 前々除 白山 社内壱反壱畝歩 前々除 内山永久寺袈裟下 当村山伏 大徳院持分 諏訪明神 社内壱町弐反三畝拾五歩 前々除 吉根村 龍泉寺持分 愛宕 社内壱町弐反五畝歩 備前検除 江州飯道寺梅本袈裟下 当村山伏 文殊院持分 富士浅間 社内壱反弐畝歩 前々除 当村六兵衛支配 神明・山神七ヶ所 社内 七反弐畝四歩 前々除 支配人なし」
『尾張徇行記』(1822年) 「社十二区 白山社内一段一畝歩前々除山伏大徳院持分 諏訪明神 愛宕社 富士浅間社 神明山神七ヶ所」
『尾張志』(1844年) 「三社ノ社 小幡むらにありて白山愛宕八幡を合せ祭る 愛宕社 神明社 稲荷社 諏訪社 大田神ノ社 同村にあり」
『寛文村々覚書』に前々除で支配人なしとあるのが気になる。やはり、廿軒家の集落は小幡村とは別と考えるべきなのか。
公式サイトに書かれた歴史を少し拾い出してみる。 所蔵する一番古い棟札は元禄十六年(1703年)のもので、元文4年(1739年)、明和8年(1771年)、安永4年(1775年)、安永8年(1779)、寛政4年 (1792年)のものがある。 元治二年(1865年)に成瀬家の家臣たちが長州征伐に出陣するとき灯籠を奉納した。 かつてはおまんと(馬の塔)が盛んで、白山神社(小幡白山神社のことか)との間を馬駆けで往復した。 大正11年(1922年)に改築されて、当時の社殿は東向きだった。南に石段や鳥居はなく、神社の下は小川が流れていた。 昭和17年(1942年)に廿軒家は小幡から独立。 翌昭和18年(1943年)に白山社から独立。 平成27年(2015年)に400年祭が行われた。 なお、神社境内から鉄斧などの鉄製品が出土していることから古墳の可能性が指摘されている。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は元和年間(1615)と伝える。昭和16年12月15日無格社に列なる」 「特殊神事 輪くぐり 人形 左義長(神賑神事) 子供獅子 子供相撲 お砂取り 宝物 おまんと行事に使われた馬道具一揃」 『愛知縣神社名鑑』の情報は古いので、今でも子供獅子や子供相撲が行われているかどうかは分からない。おまんとはなくなり、馬具が保存されているというのはそうなのだろう。
現在の社殿がいつ改築されたのかは調べがつなかったのだけど、戦後には違いなく、ここ数年のものといっていいほど新しい。 それにしでも斬新なデザインだ。様式も素材もまったく違う建築を合体させている。和洋折衷というか、何らかの折衷建築だ。 拝殿をコンクリート造にしながら本殿の覆殿を木造で新築するという、どちらを守りたいのか分からない建築思想となっている。 境内社の守山龍神社は平成12年(2000年)に清須市の日吉神社(web)から勧請して建てたものという。境内社とはいえ、平成に入ってから新しく建てられた社は多くない。
この神社は公式サイトの思い出話や古写真の充実が素晴らしい。部外者では調べようがないこともたくさん出ている。すべての神社がこんなふうにできるわけではないけれど、氏子さんや近所の人たちに聞いて回れば多くの情報が集まる見本といえる。 江戸期の史料は逃げていかないけど、古い歴史を知る人はどんどん少なくなっていく。それは情報が永久に失われてしまうことを意味する。10代で戦後を迎えた人ももう80代だ。今集められるだけの情報を集めておかないと手遅れになる。このサイトが少しでもお手伝いになればいいと思っている。
作成日 2018.5.15(最終更新日 2019.1.25)
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