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神明社(永徳)

永徳新田の氏神なのか

永徳神明社

読み方 しんめい-しゃ(えいとく)
所在地 名古屋市港区稲永5丁目13-36 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセス あおなみ線「野跡駅」から徒歩約30分
駐車場 なし
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 稲永(いなえい)は稲永新田から来ている地名で、稲永新田は稲富新田と永徳新田が合併して名づけられた。
 稲永の神明社地図)と同じ稲永5丁目にあるものの、稲永の神明社は稲富新田にあったもので、こちらの神明社は永徳新田だった場所にある。地図には永徳神明社とあるから、そう呼んで区別しているのだろう。

『愛知県神社名鑑』はこう書いている。
「この地はもと稲富新田と称し、文久十三年(1830)熱田の社人栗田兵部が開拓した。明治9年隣接の永徳新田と合併して稲永新田となり、愛知郡寛政村に属した。牧田に移住者増え村内の安全と五穀豊穣を祈って奉斎した。明治12年、据置公許となる。昭和34年9月、伊勢湾台風により社殿を流出す。明治35年6月、社殿を造営、昭和50年11月、本殿を改築する」

 いくつか間違っている点がある。まずここは稲富新田だったところではなく永徳新田だったところで、稲富新田は文政3年(1820年)に開発されている。永徳新田は文政9年(1826年)だ。
 稲富新田の開発者は熱田の粟田兵部らとされているけど、これは名義貸しで実際に資金を出して開発に当たったのは名古屋の豪商、内海屋(内田家)だっといわれている。
 永徳新田も同様で、こちらの名義は熱田の神官、大喜下総守となっている。
 熱田の神官や神宮寺の名前を出せば藩からの許可が下りやすかったため、こういった名義貸しが行われていた。
 しかしながら、干拓で新田作りはしたものの、塩害や風水害に悩まされて収穫もままならなかったようで、幕末の安政年間(1855-1860年)に稲富新田の堤が切れて10年以上放棄されて海水に浸かっていた。
 1866年(慶応2年)に岐阜の投資家、渡辺甚吉らが資金を出して堤は修繕されたものの、明治初期には荒れ地になっていたようだ。
 永徳新田はそこまで被害はなかったようで、明治9年(1876年)に稲富新田と合併して、明治11年(1878年)に寛政村の稲永新田となった。

 神明社の創建は永徳新田ができた1826年以降ということになるけど、はっきりとしたことは分からない。
 伊勢湾台風の後に建てられた境内の由緒碑には、文政十三年(1830年)鎮座とあるのだけど、それが正しいのかどうか判断がつかない。
『尾張志』(1844年)には永徳新田の神社は載っていない。稲永新田には稲荷社があったようだ。
『尾張徇行記』が完成したのは1822年なので、そのときはまだ永徳新田はできていない。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、北の宝来新田と永徳新田を分ける堤防上か堤防下あたりに神社は位置している。現在は堤防下なのだけど、このときの地図に鳥居マークはない。もともとこの場所に創建されていない可能性もある。
 西はすぐ庄内川の河口で、北には水路もあり、非常に危うい場所にある。庄内川が溢れたらひとたまりもない。実際、昭和34年の伊勢湾台風のときには社殿が流されている。
 明治から大正、昭和初期にかけて、周囲の状況は大きくは変わっていない。田んぼに囲まれていて、民家は少ない。
 戦後の1947年の地図には、愛知起業永徳工場の大きな工場が現れる。現在の愛知機械工業で、愛知時計製造(愛知時計電機)から航空機部門が独立して愛知航空機が設立され、戦後はオート三輪のヂャイアント号やコニー360などを作っていた。サニーやチェリーなどもそうで、長らくニッサンと提携した後、今はニッサンの子会社となっている。
 神社がある場所に鳥居マークが描かれるのは1947年の地図からだ。
 1960年頃、いったん工場は縮小したか撤退したかしたようで、西部分は空白地になっている。
 1970年前後に再び愛知機械工業の工場が拡大し、1976-1980年には南へと埋め立て地が広がり、金城ふ頭もできて、現在の地形がほぼ完成したことが分かる。
 野球場、テニスコート、サッカー場などを備えた稲永スポーツセンターや、名古屋市野鳥観察館もあり、西の浜はラムサール条約に登録された藤前干潟と呼ばれている。
 稲永公園があるあたりは野跡といい、基本的には「のせき」と読むのだけど、一部「のぜき」と濁る。稲永新田の字名から名づけられていて、由来はよく分からないようだ。

 神社がある場所は庄内川の堤防下で、南の稲永公園の方から行っても、北の宝神中央公園から行っても、どちらもけっこう歩く。車では近くまで行けない。
 昼でもなんだか薄暗い神社だ。
 南から行った場合、階段を下りて南鳥居をくぐり、拝殿を越えて先に進んだところに本社がある。瑞垣で囲った高台に小型の鳥居があり、小型の狛犬があり、中央に大きい社、向かって左手が中くらいの社で、右手が小さな社となっている。左右の社に関してはまったく分からない。
 稲永公園のあるあたりが海抜4メートルで、神社のあるところは海抜1メートルなので谷底にあるような感じがする。それが暗いという印象につながっているのかもしれないけど、どことなく空気の流れが悪く淀んでいるように思えた。ここを訪れる人は少なそうだ。ついでに立ち寄るような場所ではない。
 もう少したくさん人が訪れると、淀んだ感じも解消されるかもしれない。

 

作成日 2018.7.11(最終更新日 2019.7.22)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

なんとなく暗くて寂しい印象の永徳神明社

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