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錦神社


悲しみの過去を知る



錦神社

読み方にしき-じんじゃ
所在地名古屋市港区錦町14-22 地図
創建年不明(昭和7年? 大正前期?)
旧社格・等級等十五等級
祭神熱田皇大神(あつたすめおおかみ)
アクセスあおなみ線「稲永駅」から徒歩約14分
駐車場 なし
その他例祭 10月12日
オススメ度

 綿津見神を祀る綿神社だと思ったら、糸へんではなく金へんの錦だった。これは神社のある錦町(にしきまち)から来ている。
 主祭神は熱田大神で、伊勢の神宮も一緒に祀っているそうだ。
 港区役所のサイトには、錦神社と稲荷神社は明治43年(1910年)頃に建立されたもので、中央に熱田神宮と伊勢神宮、左右に津島神社と秋葉神社を祀り、御神体はなく、毎年それぞれの神社から御札を迎えていると書いてある。
 この規模の神社ではかなり珍しいケースだ。神棚スタイルとでもいうのか、そういうシステムを採用している神社は他にもあるのだろうか。



『愛知県神社名鑑』はこの神社についてこう書く。
「此の地はもと稲富新田と称し、文政三年(1820)熱田之社人栗田兵部の開拓にかかる。明治9年、隣接の永徳新田と合併して稲永新田となり、愛知郡寛政村に属し、明治40年7月、名古屋市に編入し、昭和5年9月錦町と改称した。大正元年より熱田からの移住者増え錦町の新住者、町内の安全を願い奉斎する。時に昭和7年9月なり。昭和34年9月、伊勢湾台風に被災、昭和38年本殿を造営、平成2年に改築した」



 ここでは創建を昭和7年(1932年)といっている。
『港区の歴史』は大正の初め頃の創建とする。
 港区がいう明治43年頃と大正初め頃は近いとしても、昭和7年となると話が違ってくる。
 創建を明治の終わりから大正の初め頃とするのにはひとつ根拠がある。



 明治の終わりまで熱田にあった熱田遊廓は名古屋の南の外れの稲永新田に移されることになった。愛知県が明治45年(1912年)までに移転を完了させるようにと命じたためだ。熱田神宮(web)という神聖なお宮があり東海道で人通りも多い場所に遊廓があるのはよろしくないというのが表向きの理由だった。
 しかし、この移転話には裏があった。
 岐阜県の資産家、渡辺甚吉は稲永新田に土地をたくさん持っており、愛知県知事と名古屋市長などに話を持ちかけて、一儲けしようとたくらんだ。あらかじめ知事や市長に土地を安く売り、遊廓を移転させれば土地の値段は跳ね上がるのでそうなったときに売れば大もうけできるというのが渡辺甚吉の計画だった。
 明治43年(1910年)に熱田遊廓は稲永新田に移転。現在の錦町の中心部がちょうど遊廓や歓楽街があった場所で、錦町とその頃から呼ばれるようなった。
 明治45年(1912年)に稲永遊廓は営業を開始した。渡辺甚吉の計画通り進むかと思えた矢先、突如、愛知県前知事と名古屋市前市長は代議士や名古屋土地専務、十六銀行頭取とともに逮捕されるという事態が起きる。どこかで話が漏れたらしい。
 しかしながら裁判の結果、証拠不十分で無罪の判決が出た。後に稲永疑獄事件と呼ばれるようになるこの出来事は、今も関係者の間では語り草となっている。



 錦神社は遊廓や歓楽街の店主たちが祀ったのが始まりという。だとすれば、大正の初めというのが一番ありそうな話だ。熱田神宮(web)と伊勢神宮(web)から御札をいただいてきて祀ったのだろう。
 創設当初、鳥居や社などはすべてがコンクリート造だったらしい。
 稲荷社は商売繁盛を願って造営されたものというから、これはもう少し後のことだろう。



 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、ここは周囲を含めて田畑しかなかったことが分かる。
 大正9年(1920年)の地図では田んぼの中に突然、正方形の町らしきものが現れる。これが稲永遊廓だ。錦神社はそのど真ん中に位置していた。
 移転当時の稲永遊廓は貸座敷38軒、娼妓160人ほどの規模だったという。
 この頃の名古屋の一大歓楽街は大須の旭楼が移った中村遊廓で、高級な中村遊廓に対して安価だった稲永遊廓は船員や港で働く人間がよく遊んだようだ。
 最盛期は昭和初期で、貸座敷は57軒あった。
 戦争が始まると稲永遊廓は軍需工場の宿舎として使われた。錦神社から出征していった若者たちもいただろう。
 戦後、遊廓は同じ港区の港陽園へと移っていった。それについては港楽神社のページに書いた。その頃になると遊廓というよりも赤線地帯と呼ばれるようになった。
 昭和31年(1956年)に売春防止法が制定されると港陽園も廃れた。
 遊廓が移転した後の昭和30年代の錦町は、まだ歓楽街だった頃の名残もあり、公設市場や映画館、銭湯などもあって、下町の風情が色濃く残っていたという。
 昭和34年の伊勢湾台風の被害を受けて木造住宅は鉄筋コンクリートで建て替えられた。現在はすっかり住宅街となっており、稲永遊廓の名残はほとんど見られない。わずかに銭湯が営業していることが昭和の面影といえるだろうか。



 中村遊廓にあった日吉町の素盞男神社や名古屋広小路の朝日神社などがそうであるように、歓楽街にあった神社というのは一種独特の雰囲気を持っている。あきらめと優しさが同居したような、すべてを受け入れて静かに微笑んでいるような感じとでもいおうか。女たちの悲しみは深く、気持ちがしんとする。男たちもまた、悲しかったに違いない。
 訪れたときは歴史については何も知らなかったのだけど、なんかここはちょっと違うなという感覚があった。歴史を知ってその感覚の正体に納得した。
 あなたは今の錦神社を訪れたとき何を思うだろうか。




作成日 2018.7.8(最終更新日 2019.7.22)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

稲永遊廓はなくなり錦神社は残った

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