神明社(花車)

ここは一体何なんだと足が止まった

花車神明社

読み方 しんめい-しゃ(はなぐるま)
所在地 名古屋市中村区名駅5丁目13-6 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・八等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アクセス 地下鉄桜通線「国際センター駅」3番出口から徒歩約5分
駐車場 なし
その他 例祭 10月第2日曜日・赤丸神事 7月上旬
オススメ度 **

 いつものように鳥居の手前で礼をして中に入ろうとして足が止まった。
 うっ、なんだ、ここは、と思う。
 昼なお暗く、ある種の威圧的な空気感をたたえていて、気軽に踏み込めなかった。
 しばらく立ち止まって中の様子をうかがった。よくは分からないけど何かがいる。それは決して嫌な感じではないのだけど、神々しさといったものとは違う、異界を感じさせる何者かだ。
 霊感などなく、どちらかというと鈍い方だと自覚している私でさえそうなのだから、敏感な人ならビンビンに気配を感じるんじゃないかと思う。
 少なくともここは、アマテラスを祀る村の神明社とかそういうたぐいの神社ではない。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。元禄十三年(1700)二月と享保九年(1724)五月、の二度の火災に罹り消失する。寛文三年(1663)九月、貞享元年(1684)十一月、元禄十四年(1701)九月、宝永八年(1711)享保九年(1724)九月それぞれ社殿を修造する。明治5年、村社に列格し明治26年10月、社殿を改修した。明治40年10月26日、供進指定社となる。例祭には山車三輌(市文化財)が町内を巡行する」

 一番古い棟札が1663年(寛文3年)なのでそれ以前の創建は間違いないと由緒書きにもあるのだけど、『寛文村々覚書』(1670年)に「廣井村 社ヶ所 神明 弁才天 社内壱反壱畝保 前々除 右ノ上野持分 富士浅間社内年貢地 当所祢宜 若狭持分」とあり、前々除ということは1608年の備前検地以前からあったと考えられる。
 広井村(廣井村)は1610年の名古屋城築城によって半ば城下町として取り込まれる恰好になるのだけど、集落は江戸時代以前からあったに違いない。
 この神明社が廣井村の氏神だった。集落の誕生とともに祀られたとしたら、集落の成立時期が創建時期ということになる。それがもし古い時代だとすれば、もともとはアマテラスを祀る神明社ではなかったかもしれない。
 気になるのは堀川を挟んで東にある泥江縣神社地図)との関係だ。
 泥江縣神社は平安時代前期の859年(862年とも)創建とされ、熱田台地の西の縁に位置している。当然ながらこの頃は名古屋城もなく、堀川も掘られていない。
 堀川が掘られる以前に自然河川が流れていたのではないかという説もあるのだけど、神明社が熱田台地の下にあることは間違いない。
 泥江縣神社はかつて広大な境内地を有していたとされ、西の熱田台地の下まで境内域だったという話がある。だとすれば、神明社は泥江縣神社の境内地にあったとは考えられないだろうか。そうではないとしても、ほとんど隣接していた可能性が高い。
 神明社は何故この場所に建てられたのか。泥江縣神社と関係があったのかなかったのか。
 神明社の北と南には光明院と浄信寺という寺があり、神社は挟まれるような格好になっている。これらの寺との関係はどうだったのか。

『愛知縣神社名鑑』にあるように、廣井村は二度火事で焼けている。神明社もそのたびに消失したようだ。
 元禄13年(1700年)の火事では1600軒余りが焼ける大火事になり、それを受けて尾張藩4代藩主の徳川吉通は堀川沿いの商家を火事から守るため、通りの道幅を広げるように命じた。五条橋から中橋の間の道を4間(約7メートル)にしたことから四間道と呼ばれるようになる。
 それは堀川の二本西の通りで、後に南まで拡張されたため神明社は四間道沿いの神社ということになった(堀川の一本西の通りが美濃路)。
 神明社のあたりは神明町ともいわれていた。
 江戸時代も後期になると堀川西にも商家や民家が増えて、名古屋城下の一部になっていた。
 江戸の後期から明治、大正にかけて、このあたりは全国有数の鼻緒の生産地として栄えた。履物問屋も集まっていたようだ。
 明治11年(1878年)に花車町と改名することになったのは、大須観音(web)の馬の塔に花車の飾りを提供していたことが由来とされる。
 馬の塔(うまのとう)は、桶狭間の戦いで信長が勝利したことを喜んだ村人たちが飾った馬を引いて祝ったことが発祥ともいわれ、尾張、西三河地方の祭礼として定着したものだ。
 後に熱田神宮(web)と大須観音で盛んに行われるようになり、各村から飾り立てた馬を奉納するようになった。
 花車(はなぐるま)は言葉通りのもので、花を飾った二輪の荷車のことだ。

 江戸時代、廣井村には9輌の山車(だし)があった。
 三の丸天王社(現在の那古野神社)の例祭のときに曳き出される2輌の車楽(だんじり)に対する献灯車として宵祭りに参加したのが見舞車と呼ばれる小型の山車だった。
 各村から曳き出された16輌の見舞車が集結する光景は見事なものだったという。
 江戸から明治になり、それらは少しずつ失われていき、空襲で焼けたりしたものの、現在でも花車の神明社は紅葉狩車、二福神車、唐子車の3輌の山車を持っていて、毎年10月の例祭には曳き出されて町内を練り歩いてる。
 いずれも名古屋型と呼ばれるもので、文政年間(1818-1930年)に作られたものとされる。
 からくり人形の奉納があり、夜は灯りを付けた提灯が彩りを添える。

 境内を奥へ進むと更にディープ感が増していく。
 奥まった場所に境内社が並び、池の中州の社に宗像社がある。
 かつては辯才天と呼ばれており、現在は田心姫命(たごりひめのみこと)を祀っている。この創建は1610年以前という。
 天光龍神社では御神木の椋の木(ムクノキ)を祀っている。
 一番謎に思ったのが、坤現不動という幟(のぼり)が立ち並ぶ大聖不動明王というものだった。
 神仏習合の名残かと思ったらそうではなく、わりと最近のものだという。それはこんな話だ。
 参拝に来ていた野村治男さんが参道で突然動けなくなり、足元を見ると不動明王の姿が現れたという。そこで、野村さんが乗っていた敷石を不動明王として祀ることになったというのだ。
 私が感じた何者かの気配といったものは、この話と無関係ではないかもしれない。

 創建年代やいきさつが何も分からないので何とも言えないのだけど、ここは不思議な神社だ。好きとか嫌いとか、良い悪いとかではなく、なかなかの神社には違いないと思う。普通ではない。
 泥江縣神社のすぐ近くということで、土地が発するエネルギーが強いところなのかもしれない。
 気になった方はぜひ訪ねていって自分の感覚で確かめてほしい。

 

作成日 2017.7.29(最終更新日 2019.5.3)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

HOME 中村区



Scroll Up