花車神明社

ここは一体何なんだと足が止まった

花車神明社

読み方 はなぐるま-しんめい-しゃ
所在地 名古屋市中村区名駅5丁目13-6 地図
創建年 不明
 村社・八等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アクセス

・地下鉄桜通線「国際センター駅」3番出口から徒歩約5分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度 **

 いつものように鳥居の手前で礼をして一歩足を踏み出そうとして足が止まった。
 うっ、なんだ、ここ、と思う。
 昼なお暗く、ある種の異様な空気感をたたえていて、気軽に踏み込めなかった。
 よくは分からないけど何かがいる。それは決して嫌な感じではないのだけど、神々しさといったものとは違う、異界を感じさせる何者かだ。
 霊感などなく、どちらかというと鈍い方だと自覚している私でさえそうなのだから、敏感な人ならビンビンに気配を感じるんじゃないかと思う。
 少なくともここは、アマテラスを祀る村の神明社とかそういったたぐいの神社ではない。

『愛知縣神社名鑑』や由緒書きなどによると、寛文三年(1663年)修造の記録が残るので、創建はそれ以前には違いないとしている。
 問題は江戸時代以前か以後かということだ。細かく言えば、1610年の名古屋城築城前か後かが重要になる。
 というのも、堀川を挟んで向かいに泥江縣神社があるからだ。泥江縣神社は創建が平安時代前期の859年ともいわれる古い神社で、名古屋城築城前は堀川の西も含めた広大な境内を有していたとされる。
 もし、花車神明社が名古屋城築城以前にあったとすれば、泥江縣神社と隣り合わせに建っていたことになる。泥江縣神社は熱田台地の上にあり、花車神明社は台地の下という位置関係だ。
 名古屋城築城後の創建だとすれば、現在とあまり変わらず、堀川を挟んで台地の上と下ということになる。しかし、そうなると両社の関係性はどうだったのかという点も気になるところだ。
 花車神明社の北と南には光明院と浄信寺という寺があり、神社は挟まれるような格好になっている。これらの寺との関係はどうだったのか。

『尾張志』には、「廣井四軒道にあり 天照大神を祭る 鎮座の年月詳ならす」とある。
 江戸時代、ここは廣井村だった。堀川より西ということで、名古屋城下の外という認識だったと思う。
 元禄13年(1700年)に、1600軒余りが焼ける大火事があり、泥江縣神社も、花車神明社も巻き込まれ焼失している。
 そこで尾張藩4代藩主の徳川吉通は堀川沿いの商家を火事から守るため、通りの道幅を広げるように命じた。五条橋から中橋の間の道を4間(約7メートル)にしたことから四間道と呼ばれるようになる。
 それは堀川の二本西の通りで、後に南まで拡張されたため神明社は四間道沿いの神社ということになった(堀川の一本西の通りが美濃路)。
 神明社のあたりは神明町ともいわれていたようだ。
 江戸時代も後期になると堀川西にも商家や民家が増えて、名古屋城下の一部になっていた。

 江戸の後期から明治、大正にかけて、このあたりは全国有数の鼻緒の生産地として栄えたという。履物問屋も集まっていたそうだ。
 明治11年(1878年)に花車町と改名することになったのは、大須観音の馬の塔に花車の飾りを提供していたことが由来だという。
 馬の塔(うまのとう)は、桶狭間の戦いで信長が勝利したことを喜んだ村人たちが飾った馬を引いて祝ったことが発祥ともいわれ、尾張、西三河地方の祭礼として定着したものだ。
 後に熱田神宮と大須観音で盛んに行われるようになり、各村から飾り立てた馬を奉納するようになった。
 花車(はなぐるま)は言葉通りのもので、花を飾った二輪の荷車だ。

 江戸時代、廣井村には9輌の山車(だし)があったという。
 三の丸天王社(現在の那古野神社)の例祭のときに曳き出される2輌の車楽(だんじり)に対する献灯車として宵祭りに参加したのが見舞車と呼ばれる小型の山車だった。
 各村から曳き出された16輌の見舞車が集結する光景は見事なものだったという。
 江戸から明治になり、それらは少しずつ失われていき、空襲で焼けたりしたものの、現在でも花車神明社は紅葉狩車、二福神車、唐子車の3輌の山車を持っていて、毎年10月の例祭には町内を練り歩いてる。
 いずれも名古屋型と呼ばれるもので、文政年間(1818-1930年)に作られたものとされる。
 からくり人形の奉納があり、夜は灯りを付けた提灯が彩りを添える。

 境内を奥へ進むと更にディープ感が増していく。
 奥まった場所に境内社が並び、池の中州の社に宗像社がある。
 かつては辯才天と呼ばれており、現在は田心姫命(たごりひめのみこと)を祀っている。
 この創建は1610年以前という。
 天光龍神社では御神木の椋の木(ムクノキ)を祀っている。
 一番謎に思ったのが、坤現不動という幟(のぼり)が立ち並ぶ大聖不動明王というものだった。
 神仏習合の名残かと思ったらそうではなく、わりと最近のものだという。それはこんな話だ。
 参拝に来ていた野村治男さん(実名を出すか)が参道で突然動けなくなり、足元を見ると不動明王の姿が現れたという。そこで、野村さんが乗っていた敷石を不動明王として祀ることになったというのだ。
 私が感じた何者かの気配といったものは、この話と無関係ではないかもしれない。ただ、訪ねる前はこの神社に関する予備知識は何もなかった。

 創建年や創建のいきさつが何も分からないので何とも言えないのだけど、ここは不思議な神社だ。好きとか嫌いとか、良い悪いとかではなく、なかなかの神社には違いないと思う。普通ではない。
 泥江縣神社のすぐ近くということで、土地が発するエネルギーが強いところなのかもしれない。
 非常に気になる神社がまたひとつ増えた。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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