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八劔社(野並)

千秋家が建てたものではなさそう

野並八劔社

読み方 はっけん-しゃ(のなみ)
所在地 名古屋市天白区野並3丁目239 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十四等級
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
月読尊(つくよみのみこと)
蛭児尊(ひるこのみこと)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
宮簀媛命(みやずひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)
アクセス 地下鉄桜通線「野並駅」から徒歩約2分
駐車場 あり?(北側鳥居をくぐって境内に可かも)
電話番号 052-842-8383
その他 例祭 10月17日
オススメ度

 野並村は戦国時代に、織田信長が熱田社大宮司の千秋家(せんしゅうけ)に与えた所領のひとつで、江戸時代を通じてここは千秋家が治めていた。
 野並の八劔社について分からないことがふたつある。
 ひとつは八劔社を創建したのは千秋家だったのかどうかということ。
 もうひとつは何故、熱田社本社ではなく別宮の八劔社だったのかという点だ。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建縁由は明かではない。古くより古鳴海の八劔社として崇敬あつく、明治5年7月26日、村社に列格する。大正元年12月5日、境内神社の内、六所神社と熱田社の祭神を合祀した」

 古鳴海というのは、鳴海村が江戸時代に南の東海道沿いに移るまで集落があった場所で、野並の川南(藤川)に当たる。古鳴海と野並は別の村だと思うのだけど、古くは一帯だっただろうか。
 この神社を千秋家が創建していたのならそういう記録が残っているはずで、そうじゃないとなると創建者は別ということになるのではないか。時代的にも戦国時代後期ではなく、もっと前だった可能性もある。

 江戸時代前期の1670年頃にまとめられた『寛文村々覚書』の野並村の項を見るとこうなっている。

「野並村 諸役免許 熱田 千秋刑部領 庄ハ不知
 社 四ヶ所 大明神 田之神 神明 山之神 社内弐反四畝廿弐歩 前々除 村中 支配」

 千秋刑部は千秋刑部少輔家のことで、そこの所領になっていて諸役が免除されていたことが分かる。
 神社は4社あって、「村中支配」となっているのは気になる。千秋家のものでもなく、祢宜の持分でもなかったのはどういう状況だったのか。
 前々除とあるから、1608年の備前検地以前にはすでにあったということだ。
『尾張徇行記』(1822年)の内容もほぼ同じで、『尾張志』(1844年)には「八劔ノ社 當社を村の氏神とす 末社 六所社 秋葉ノ社」とあるから野並村の氏神だったのは間違いない。
 千秋家が創建していないとは決めつけられないのだけど、感触としては千秋家創建ではない感じがする。
 野並村の成立がいつなのかがひとつポイントとなる。千秋家の所領となった以前に村がすでにあったのであれば、村の氏神は千秋家の創建ではない可能性が高い。
 八劔社のすぐ北に梅野古墳群があったことが知られており(消滅)、八劔社境内も古墳ではないかという話もあることから、野並村の集落ができたのは古墳時代とも考えられる。

 千秋家とは何かということを説明するにはまず尾張氏についての説明が必要だ。
 尾張氏の系図を見ると、祖は天火明命(アメノホアカリ)となっている。アマテラスの降臨命令を拒否した正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)の子供で、天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギ)の兄とされる。
 尾張国一宮の真清田神社(一宮市/web)や守山区の東谷山山頂にある尾張戸神社の祭神となっている。
『先代旧事本紀』には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくに てるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと )とあり、物部氏の祖である饒速日命(ニギハヤヒ)と同一視している。
 十一世(十世とも十二世とも)の乎止与命(オトヨ)のとき初代の尾張国造(おわりのくにのみやつこ)となり、熱田社の大宮司を務めることになった。その後、代々熱田社大宮司は尾張氏が務めていた。
 それが平安末期になって突如、藤原家と交代することになる。藤原氏の力がそれだけ大きくなったということもあるだろうし、尾張氏の力が弱まった結果かもしれない。
 父の藤原季兼が尾張国の目代(遠方の支配地を代わり治める役職)をしていた関係で尾張に生まれた藤原季範が尾張氏に代わって熱田大宮司の職についた。尾張氏は権宮司に下がっている。それが1114年のことだ。
 千秋家を名乗るのは季範の孫の憲朝のときということだけど、千秋の由来はよく分からない。三河国に持っていた領地名という話もある。
 ちなみに、季範の娘が源義朝の正室となり、頼朝を生んでいる。実家で出産する習わしがあったので頼朝は名古屋生まれではないかという説もある。
 その後、千秋家は武家化していくことになり、戦国時代には熱田社の大宮司でありながら武将でもあった。
 千秋季光は織田信秀の家臣となり、加納口の戦いで戦死したのに続き、息子の季忠は信長に従って桶狭間の戦いに参加して討ち死にしてしまった。
 季忠の息子はそのときまだ母のおなかの中におり、14年後の1574年に信長に謁見した際、このまま武士をやっていたら千秋家が途絶えてしまうから、宮司職に専念するようにと命じられ、以降、戦に参加することはなくなった。
 そのとき、刀ひと振りとともに野並村その他を所領として与えられたという。

 この刀を納めて祀るために千秋家が八劔社を創建したというのであれば話の流れとしては自然だ。熱田社本社ではなく八劔社を建てたというのも説明がつく。
 しかし、そういう記録や言い伝えが残っていないということは、やはりそうではなかったのだろうと思う。それ以前から野並村に八劔社があったのではないか。
 信長から拝領した刀を今でも千秋家が所有しているのかどうかは分からない。
 千秋家代々の墓が野並の梅野公園近くにある。

 野並は台地と丘陵帯の間の天白川河口の谷間で、古くは年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる海辺の干潟だった。古くといっても戦国、江戸時代までそうで、野並は海路と陸路の分かれ目で、交通の要衝だった。
 海路の場合、干潮時のみ徒歩で西の松炬島(まつこしま/今の笠寺)に渡り、そこから北上して熱田方面に向かった。
 満潮の場合は船で行き来しており、南区楠町の村上社地図)があるあたりに船着き場があったという。
 上の道と呼ばれる陸路の場合も、満潮のときは年魚市潟を迂回して北の中根や井戸田にいったん進んでから西へ向かっていた。八劔社の北にある細い道が上の道の一部とされ、南は古鳴海交差点あたりで中の道と合流していたと考えられている。
 信長が今川との戦いで熱田社から桶狭間方面に向かって進軍する際も真っ直ぐ行かずに北へ迂回しているのは、潮の関係で干潟を馬で進めなかったからと思われる。
 野並の地名の由来を津田正生は『尾張国地名考』の中で、「鳴海野に並ぶゆえに野並といふなり」と書いている。
 野並の東の丘陵地帯にはかつて梅林が広がっていたという。『尾張名所図会』にも「野並乃梅」として絵が描かれているくらいだから、ちょっとした名所だったのだろう。今はもう残っていない。梅林公園にその名残を見るくらいだ。
 梅林がある丘から西を眺めると干潟が広がっていて、その向こうには松が生い茂る巨大な島のような松炬島が見え、旅人が船で渡っていったなどという光景は、今ではまったく想像がつかない。
 野並の数百年の歴史を見続けてきた八劔社は何も語らない。我々はそこから何を読み解くことができるだろうか。

 

作成日 2017.12.23(最終更新日 2019.2.5)

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