若宮から名古屋総鎮守へ | |
読み方 | わかみや-はちまん-しゃ(さかえ) |
所在地 | 名古屋市中区栄3丁目35-30 地図 |
創建年 | 伝701-704年(飛鳥時代後期) |
旧社格・等級等 | 県社・三等級・別表神社・名古屋総鎮守 |
祭神 | 仁徳天皇(にんとくてんのう) 應神天皇(おうじんてんのう) 武内宿禰命(たけうちのすくね) |
アクセス | 地下鉄鶴舞線「大須観音駅」から徒歩約7分 地下鉄名城線「矢場町駅」から徒歩約5分 名古屋市バス「名古屋市美術館東」から徒歩約5分 名鉄バス「矢場町」から徒歩約5分 駐車場 あり(有料) |
webサイト | 公式サイト |
電話番号 | 052-241-0810 |
その他情報 | 例祭 5月16日 授与所 各種お祓い ご祈祷 結婚式 |
オススメ度 | *** |
名古屋総鎮守と位置づけられた神社で、名古屋に三社しかない別表神社のうちの一社でもある(あとの二社は熱田神宮と愛知県護国神社)。 名古屋を代表する神社といえば熱田神宮だけど、名古屋市民の総氏神となると若宮八幡社ということになる。名古屋市民でそれを意識している人は少ないだろうし、わざわざ若宮八幡社に参拝するために県外から来る人は稀だろうけど。 創建は第42代文武天皇(もんむてんのう)時代、飛鳥時代後期の701-704年とされる。 文武天皇は天武天皇、持統天皇の孫で、父の草壁皇子が即位せずに亡くなったため、14歳で即位した。それが697年なので、若宮八幡社創建はその数年後ということになる。 若宮八幡社は1610年に名古屋城が築城される際、城内に当たるため城外に出された。 正確な位置は分からないのだけど、名古屋城時代でいうと二の丸の南の三の丸にあったようで(当時そこは今市場と呼ばれていた)、名古屋城筑前以前の古図を見ると「若宮」となっている。 この神社はもともと若宮八幡ではなく若宮だった。若宮八幡と若宮はまったく別物だ。 一般的に若宮八幡というと、八幡神とされた應神天皇の息子、仁徳天皇を祀るところが多い。 若宮というのは文字通り若い宮ということで新宮などをそう呼ぶこともあるのだけど、多くの場合、非業の死を遂げた人間などが怨霊化しないように若宮として祀った。 飛鳥時代後期の700年頃、誰がこの地で若宮を祀ったのかが問題だ。そして、祀られたのは誰だったのか。 後に名古屋城が建つ場所は、駿河の今川が進出していた場所で、今川と尾張の織田家との領地争いの最前線だった。 二の丸になる場所には今川氏親が尾張攻略の足がかりとして築いた柳ノ丸があった。その後、織田信秀が計略により奪い取って那古野城とした。 信長は那古野城で生まれたという説と勝幡城で生まれたという説があるのだけど、幼い頃から那古野城主を務めていた。 信長が清須城に移った後、那古野城は廃城となり、江戸時代になって家康が跡地を利用して名古屋城を建てた。 もう一度、名古屋城築城以前の古図を見ると、若宮の北西に天王と八王子があり、北東には荒神がある。本丸になる場所には山神と天神、北西の堀の外には宗像社が、少し離れた北東の城外には深島神社があった。 天王は今の那古野神社で、八王子は清水の八王子神社春日神社、山神は上宿山神社、天神は武島天神社、深島神社は深島神社(柳原)として現存している。宗像社ははっきりせず、荒神は残っていないかどこかに合祀されたかしたようだ。 このうち八王子は若宮と同じく文武天皇時代(697-707年)に創建されたと伝わり、天王は平安時代中期の911年に醍醐天皇の勅命で建てられたとされる。 若宮は延喜年間(901-923年)に再興されたという話があるので、醍醐天皇の勅命で天王が建てられたとき一緒に修造したということだろうか。 神社がある場所は熱田台地(名古屋台地)の北西端で、古代は台地下の西と北は入り海だった。 南北に細長い熱田台地の南端に熱田社(熱田神宮)が建てられ、その北には白鳥古墳と断夫山古墳が現存する。断夫山古墳は6世紀前半築造とされる東海地方最大の前方後円墳で、全長は150メートルを超える。 そこから少し北の高蔵には弥生時代の高蔵遺跡があり、高座結御子神社の周囲には高座古墳群が形成されている。 その北の古渡(金山周辺)では伊勢山中学の敷地から弥生時代から古墳時代、中世にかけての遺跡が見つかっており、尾張最古の寺ともされる尾張元興寺(願興寺)があった(7世紀半ば建立)。 熱田台地の中央部には那古野山古墳、大須二子山古墳、浅間神社古墳、日出神社古墳などがあり、式内社の日置神社もある。 大須の北には名古屋最古の遺跡とされる竪三蔵通遺跡の他、旧紫川遺跡などがあり、竪三蔵通遺跡からは約3万年前の旧石器時代の石器(ナイフ型石器の剥片)も見つかっている。 その北はやや空白があり、台地北辺には名古屋城天守閣貝塚、三の丸遺跡、長久寺遺跡、片山神社遺跡など、縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が確認されている。 ここは江戸時代に名古屋城が建ち、城下町によって上書きされる格好となったため古代の詳しいことは分かっていない。熱田台地北部に古墳の存在は知られていない。 ただ、名古屋城の濠から銅鐸が見つかったという話もあり、縄文時代、弥生時代に神祀りが行われていたとすれば、それが後の神社創建につながった可能性はある。 熱田台地北部で式内社とされているのは片山神社のみではあるのだけど、若宮、八王子などは実際に古い社ではないかと思う。 熱田台地中央でいえば、洲嵜神社や泥江縣神社なども古い神社とされている。 熱田台地の北にいたのがどんな勢力で、いつからここに土着したのか。 熱田台地中央や南部とはどういう関係だったのか。 若宮や八王子というのは一族の祖神ではないだろうから、南の尾張氏とは別ではないかという気もする。 若宮、八王子、天王は古い神社とされながら『延喜式』神名帳(927年)には載っていない。『延喜式』神名帳に載るということは、平安時代中期の時点で官社とされた神社ということだ。古くて由緒ある神社でも、仏教色が強かったり、他の理由で『延喜式』神名帳に載らなかった神社はたくさんある。尾張国は121座121社が載っているのだけど、当時は少なくともその数倍は神社があったに違いない。もしかしたら10倍以上かもしれない。 『延喜式』神名帳に載った神社と載らなかった神社の違いや差がどこにあったのかは分からない。載ったことよりも載らなかった理由の方が重要だ。 若宮が実際に700年頃の創建だとしたら、古さでいえば載るには充分な資格があっただろうに載らなかった。八王子や天王もそうだ。 天王に関しては911年に醍醐天皇の勅命で建てられたというのだから載ってもよかったのではないか。まだ建てられて間もないということだったのか、あるいは京都の祇園社(今の八坂神社/web)が656年創建とされながらも載らなかったのと同じように仏教色が強い牛頭天王を祀っていたことが理由だっただろうか。同じく中世は牛頭天王を祀っていた津島牛頭天王社(今の津島神社/web)も『延喜式』神名帳に載っていない。 八王子もおそらく牛頭天王の皇子を祀っていただろうから、同じ理由だったかもしれない。 だとすると、若宮も官社とされるような性格の神社ではなかったということだろうか。 若宮は『延喜式』神名帳に載る愛智郡孫若御子神社ではないかとする説がある。今は熱田神宮の摂社のひとつとなっている。 孫若御子神社も正体がはっきりしない神社で、私も一時はその説に賛同していた。しかし、孫若御子神社は『延喜式』神名帳では名神大社となっており、836年の『続日本後紀』には「尾張国日割御子神 孫若御子神 高座結御子神 惣三前奉レ預二名神一 並熱田大神御児神也」と書かれていること、熱田台地の北辺は愛智郡ではなく山田郡だっただろうことを考えると若宮を孫若御子神社とするのは無理があると考えを改めた。 名神大社というのは霊験あらたかな神社と朝廷が認めたということを意味しており、尾張国では、一宮市の真清田神社(尾張国一宮/web)、大神神社、太神社、犬山市の大縣神社(尾張国二宮/web)、名古屋市の熱田神社、高座結御子神社、日割御子神社、孫若御子神社だけだった。 若宮は江戸時代以降に若宮八幡社として立派な神社に成長したけど、名古屋城時代以前に大社だったとは思えない。若宮という神社の性質からしてもそうだ。 考えられる可能性としては、700年頃の創建時は個人を祀る小さな若宮だったのが、その後尾張氏に取り込まれることで熱田大神の子を祀るということになり神社としての格が上がったということだけど、それにしても江戸時代まで熱田台地の北辺にあったことからすると、熱田大神の子供神を祀るというのはちょっと難しいのではないか。 若宮八幡社も式内社どうこうといったことは主張していない。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に、文武天皇の御宇に那古野庄今市場の地に奉斎すという、延喜年間(901-922)に再興し、慶長十五年(1610)名古屋城築城の際今の社地に遷座する。天文元年(1532)3月11日織田信秀が那古野城主今川氏豊を攻めた際兵火に罹り焼失したが、天文八年再興し、寛永二年(1625)7月徳川光友、社参、明暦三年(1657)祭礼に代参あり、太刀、黄金一枚を献進する。万治元年(1658)12月光友社参、寛文四年(1664)光友、社殿造営寄進。社僧を廃止して神官を置く藩主の寄進維新に及んだ。明治5年郷社に列し、明治13年3月14日、県社に昇格する。境外末社八社今独立す。昭和20年3月19日、空襲により社殿悉く烏有に帰す。昭和32年5月復旧造営する。昭和46年7月別表社に列した」 『尾張志』(1844年)は文武天皇創建の社伝を紹介し、名古屋城築城の際に今の場所に移し、もともとは若宮といっていたのが江戸時代前期あたりから若宮八幡社と呼ぶようになったとしている。 祭神はこの頃から仁徳天皇(中央)、應神天皇(左)、武内宿禰命(右)だったようだ。 その上で、『延喜式』神名帳の孫若御子神社はこの若宮のことではないかという説に触れあれこれ書いている。 孫若御子神社の祭神については、稚武彦命とするのは第7代孝霊天皇の皇子との混同で、本来は若建王ではないかという。若建王は『日本書紀』では両道入姫(フタジイリヒメ)の子となっており、『古事記』では弟橘姫(オトタチバナヒメ)の子としており、いずれも日本武尊(ヤマトタケル)の子なので、熱田大神の孫若と呼ぶことに由がないわけではないとしている。 熱田社の中の孫若御子神社は、もともとは遙拝所だっただろうといっている。 『尾張名所図会』(1844年)には若宮八幡社の絵が描かれている。 大変立派な神社だったことが見てとれる。広い境内に典型的な尾張造の社殿が建っている。拝殿があり、祭文殿があり、本社を瑞垣が囲んでいる。多くの摂社、末社があり、境内に芝居小屋もあって賑わっている。 第二次大戦の空襲で焼けなければ今頃は国宝になっていたかもしれない(名古屋東照宮は戦前まで国宝指定されていた)。 『尾張名所図会』の執筆を担当した岡田啓の文章は簡潔で分かりやすい。 「末廣町の東側にあり。もと三の丸天王の社のみなみにありしを、慶長十五年御城築の時、東照神君御鬮(みくじ)をとらせられ、神慮に任せ此所に遷座なさしめ給ひて、御城下の鎮守と定め給へり。抑(そもそも)當社の祭神は、八幡宮(應神天皇)の若宮大鷦鷯尊(仁徳天皇)にましまして、八幡宮も相殿にましますとぞ。天武天皇の御宇にて始て御鎮座にて、延喜年中再営を加へ給ひ、その後安養寺といふ宮寺をたて、僧坊十二宇をおかれたり。天王坊もその内の一宇なるよし。しかるに天文元年の兵火にかかりて、神宮・僧坊もみな焼亡しけると、同八年再営ありしよし、社記に見えたり。又『延喜式神名式』に、愛知郡孫若御子神社(名神大)とあるは、此御社のことならんかといへるは、若宮といふによしありけに聞え、又牛頭天王の若宮ならんといふ説もあれど、共にたしかなる據(よりどころ)もなく、且若宮八幡宮の稱年久しくして、普く人のしる所なれば、社傳に随って強ひて私意を贅(ぜい)せず」 ここでは文武天皇の祖父・天武天皇時代の創建といっている。 中世は神仏習合して安養寺という宮寺があったようだけど、戦国時代に織田信秀と今川氏豊の戦いで焼けてしまったといっている。 岡田啓は私的な意見は控えるとしながらも、若宮が『延喜式』神名帳の孫若御子神社ではないかという説は江戸時代から根強かったことがうかがえる。 明治になってまとめられた『特選神名牒』も、天野信景の若宮=孫若御子神社説を紹介しつつ今更他の神社を軽々しく違う神社とすべきではないとしている。 毎年、5月15日から16日にかけて、若宮まつりが行われる。これは江戸時代から盛んだった祭りで、天王社の天王祭、名古屋東照宮の東照宮祭と並んで名古屋三大祭と呼ばれ、大いに賑わった。その様子は『尾張名所図会』にも描かれている。 山車7両が神輿とともに名古屋城三の丸の天王社と若宮八幡社を往復し、藩主から庶民まで大勢の人たちが見物した。 現在は、だいぶ規模が縮小されてしまったものの、唯一残った山車1両(福禄寿車)と神輿が、那古野神社との間を練り歩く。 前日の夜には試楽祭も行われる。そのときの様子は以前ブログで紹介した。 若宮まつりの試楽祭を撮りにいく 若宮が『延喜式』神名帳の孫若御子神社かどうかよりも、700年初頭、もしくはそれ以前に熱田台地の北に誰が若宮を祀ったかの方が重要で、その答えが熱田台地北部の謎を解く鍵を握っている。若宮、八王子その他の古い神社をどんな勢力が祀ったのかが分かれば謎を解く手がかりになるし、分からなければこの土地の歴史そのものが分からないということになる。 この土地は後に尾張を支配する尾張氏にとって重要だったのか重要ではなかったのか。 熱田、高蔵、古渡(今の金山)、前津小林(今の大須から上前津)あたりまでは尾張氏の勢力圏内のように思える。ただ、そこから北がよく分からない。 若宮が孫若御子神社で、熱田大神の子を祀っていて尾張氏の関係社だったとしたら、何故ここに古墳や遺跡がないのか。神社以外の痕跡がなさすぎる。 もし尾張氏とは別の勢力が若宮を祀ったとしたら、それはそれで尾張氏以外の勢力が見えてこない。 平安時代に醍醐天皇はどうして八王子の隣に天王を祀れと命じたのか。 古墳時代から飛鳥時代、奈良時代を経て平安時代に到る過程は意外とよく分からない部分がある。人々の心境にどのような変化があったのか。神祀りや神社に対する意識がどう変わっていったのか、そのあたりの感覚的な部分が掴めない。 いずれにしても、熱田台地の北は解明されるべき多くの謎を秘めていて、若宮はそのうちのひとつに違いない。引き続き調査、検討が必要だろう。 作成日 2017.2.5(最終更新日 2022.12.14) | |
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