須佐之男社(汐見町)

ここも東区にあった天王社のひとつ

汐見町須佐之男社

読み方 すさのお-しゃ(しおみ-ちょう)
所在地 名古屋市昭和区汐見町114番 地図
創建年 伝・1781年(江戸時代後期)
社格等 十五等級
祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
神漏岐命(かむろぎのみこと)
神漏美命(かむろみのみこと)
アクセス

・地下鉄鶴舞線「いりなか駅」から徒歩約19分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 汐見町にある須佐之男社。
 須佐之男社というと、東区にたくさん集まっていて、名古屋城下の外れに近いあの地区で流行っていた神社だ。昭和区にも2つの須佐之男社があり、そのいずれも東区から移されてきたものだ。広路町の須佐之男神社(地図)であり、この汐見町の須佐之男社がそれに当たる。
 疫病除けに天王社を祀ることを藩主が奨めたという事情があるにしても、名古屋城下の東に集中した理由はよく分からない。エリアでいうと、中級、下級武士の屋敷が集まっていた場所だ。
 ひとつには、天王社というと夏の天王祭があって、それに使う山車(楽車)を競ったというのがあるのではないかと想像するのだけどどうだろう。隣町はいい山車を持っていてうらやましい。うちも欲しい。それならまず天王社を建てなきゃ始まらないということで牛頭天王を勧請して天王社を建てたという流れは考えられないだろうか。そうなると疫病除けどうこうという話は二の次ということになる。
 江戸時代、名古屋城下の三大祭りは、東照宮祭、若宮祭、天王祭で、天王祭は名古屋城内の三の丸にあった天王社(今の那古野神社)の祭りだった。

 広路町の須佐之男神社は、1773年に水筒先町(すいとうさきまち/今の筒井一丁目)に住む西村なんとかという尾張藩士が邸宅内で牛頭天王を祀ったのが始まりとされる。明治35年(1902年)に今の場所に移された。
 汐見町の須佐之男社について『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「社伝に天明元辛丑年(1781)5月、尾張九代藩主宗睦が創建という。安政三丙辰年(1856)十四代藩主慶勝は家老志水忠賢を代参者として奉幣を盛大につとめた。天明年中には白河城主松平定信は服部半蔵を代参者として天下泰平を祈願した。明治廃藩後は祭祀を庶民に移し天王社を須佐之男社と改め、明治9年11月共祭公許となり明治32年4月、車道より汐見町の社地に遷座し産土神として崇敬する」

 いろいろ引っかかるところがあるので、ひとつずつ順番に見ていこう。
 まず創建年は江戸時代後期の1781年という。これは東区一帯の須佐之男社(天王社)と時期を同じくしている。
 現在の昭和区汐見町に移されたのが明治34年というから、広路町の須佐之男神社の明治35年とほぼ同じだ。
 一番引っかかったのは、「尾張九代藩主宗睦が創建」という部分だ。
 尾張藩主が創建したなら公式記録に残っているだろうに、そういうものは見つけられなかった。『尾張志』や『尾張名所図会』、『尾張徇行記』などにも、この天王社らしいものは載っていない。
 東区車道といえば、江戸時代はおそらく古井村だと思う。私の調べる場所が間違っているのだろうか。
 ただ、「社伝」にそうあるというだけならやや弱いか。宗睦が推奨して藩士の誰かが牛頭天王を祀っていたという可能性も考えられる。

 徳川宗睦(とくがわ むねちか)は、尾張藩中興の名君とうたわれた9代藩主だ。
 7代藩主の宗春が将軍吉宗の質素倹約に反抗して名古屋で飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ政治を行って謹慎を食らい、その後を受けた8代藩主の宗勝と息子の宗睦は尾張藩の立て直しを迫られた。
 1761年、父・宗勝の死を受けて跡を継ぎ、治水工事や人材登用などにより尾張藩の改革を成功させた。
 自らは文武両道に励み、藩校の明倫堂を作ったり、『尾張徇行記』の樋口 好古(ひぐちよしふる)を登用したりした。
 寛政の改革で知られる松平定信(陸奥白河藩主)を幕府老中に推薦したのも宗睦だったという。『愛知縣神社名鑑』にある「天明年中には白河城主松平定信は服部半蔵を代参者として天下泰平を祈願した」というのは、宗睦がこの神社を創建したというひとつの裏付けとなるかもしれない。
 天明年中(1781-1789年)の服部半蔵というと、10代目か11代目だろうか。服部半蔵が忍者だったのは初代(保長)だけで、2代目(正成)からは江戸で武士になっていた。12代目で明治維新を迎えることになり、服部半蔵の名前はそこまでとなった。
「十四代藩主慶勝は家老志水忠賢を代参者として奉幣を盛大につとめた」というのは、慶勝が宗睦の藩政を理想としていたことと無関係ではなさそうだ。その宗睦は吉宗の政治を見習っていたという。
 しかし、財政改革というのはどの時代のどの国でも難しいようで、宗睦も晩年は赤字財政に苦しみ、藩札の発行がその後の尾張藩の財政破綻の一因になったといわれる。

「明治廃藩後は祭祀を庶民に移し天王社を須佐之男社と改め、明治9年11月共祭公許となり明治32年4月、車道より汐見町の社地に遷座し産土神として崇敬する」
 明治以降の流れは明確で分かりやすい。天王社を須佐之男社と改めたとはっきり書いてくれれば疑う余地はない。
 据置公許は据え置くことを公に認めるということでよく出てくるのだけど、共祭公許というのは初めて見た。共に祭るというのだから、官と民が共に祭るということだろうか。

 祭神の神漏岐命(かむろぎ)・神漏美命(かむろみ)について触れないわけにはいかない。
 しかし、これに関しては難しすぎて私には理解できないので説明もできない。大きく言えばイザナギ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)のことのようなのだけど、話はそう単純ではない。
「高天原に神留坐す(たかあまはらにかむづまります)
 神漏岐神漏美の命以ちて(かむろぎかむろみのみこともちて)
 皇親神伊邪那岐大神 (すめみおやかむいざなぎのおおかみ)」で始まる『天津祝詞』に出てくる神漏岐・神漏美だ。
 文字通りに捉えると、高天原に神がいて、神漏岐・神漏美が命じて伊邪那岐が云々となり、 神漏岐・神漏美と伊邪那岐は別の存在ということになる。
 正直よく分からないので、これは保留ということにしたい。
 それにしても何故、車道の天王社で神漏岐・神漏美を祀ったかということだ。実際、宗睦が創建して、最初からそうだったのか、どこか途中で追加されたのか。
 名古屋で他に神漏岐・神漏美を祀っている神社は知らない。全国的にみてもあまりないんじゃないだろうか。
 牛頭天王と神漏岐・神漏美が同列で祀られているということが、ちょっと理解できない。
 なんとなくだけど、どこかの代の宮司がそんなことを言い出してそれが今に伝わったという気がしないでもない。

 昭和区のはずれにある何でもないような小さな須佐之男社から思いがけず話が広がった。広がりすぎてやや収拾がつかなくなった。結局のところ、この神社はいつ誰が建てたのかが分からずじまいとなった。
 ただ、ここまで書いてきて宗睦が創建に関わったというのは信じてもいいような気がしてきた。そうでもなければ、松平定信が服部半蔵を代参者として天下泰平を祈願したなんて話は出てこないはずだ。
 そもそも宗睦自体が名古屋でも忘れられた存在となっているから、宗睦が創建した神社ということが伝わらなかったということだろうか。
 名古屋では宗春が圧倒的な人気を誇っていて、宗勝・宗睦親子のことなんて誰も知らない。せめて明倫堂の流れを汲む明和高校の生徒くらいは知っていて欲しいのだけどどうだろう。
 とりあえず神社や寺を建てておけば名前が残るということを、当時の人たちが考えていたかどうか。特に神社は最も長い寿命を誇るハコモノといえるかもしれない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

東区発昭和区行き汐見町須佐之男社

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