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須佐之男社(汐見町)


名古屋城下にあった天王社のひとつ



汐見町須佐之男社

読み方すさのお-しゃ(しおみ-ちょう)
所在地名古屋市昭和区汐見町114番 地図
創建年1781年(江戸時代後期)
旧社格・等級等無格社・十五等級
祭神建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
神漏岐命(かむろぎのみこと)
神漏美命(かむろみのみこと)
神紋木瓜紋
アクセス地下鉄鶴舞線「いりなか駅」から徒歩約19分
駐車場 なし
その他例祭 10月17日
オススメ度

 須佐之男社というと、東区・千種区にたくさん集まっていて、江戸時代の名古屋城下の外れに近いあの地区で流行っていた神社だ。当時は天王社と呼んでいた。
 当時の人たちが須佐之男(スサノオ)を意識していたのか、牛頭天王を祀るという意識だったのかはよく分からない。
 昭和区にある須佐之男社2社は、そのいずれも東区から移されてきたものだ。広路町の須佐之男神社地図)であり、この汐見町の須佐之男社がそれに当たる。
 疫病除けに天王社を祀ることを藩主が奨めたという事情があるにしても、名古屋城下の東に集中した理由は何だったのだろう。エリアでいうと、中級、下級武士の屋敷が集まっていた地区だ。
 ひとつには、天王社というと夏の天王祭があって、それに使う山車を競ったというのがあるのではないかと想像する。隣町はいい山車を持っていてうらやましい。うちも欲しい。それならまず天王社を建てなきゃ始まらないということで牛頭天王を勧請して天王社を建てたという流れは考えられないだろうか。そうなると疫病除けどうこうという話は二の次ということになる。
 江戸時代、名古屋城下の三大祭は、東照宮祭(名古屋東照宮)、若宮祭(若宮八幡社)、天王祭で、天王祭は名古屋城内の三の丸にあった天王社(今の那古野神社)の祭りだった。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「社伝に天明元辛丑年(1781)5月、尾張九代藩主宗睦が創建という。安政三丙辰年(1856)十四代藩主慶勝は家老志水忠賢を代参者として奉幣を盛大につとめた。天明年中には白河城主松平定信は服部半蔵を代参者として天下泰平を祈願した。明治廃藩後は祭祀を庶民に移し天王社を須佐之男社と改め、明治9年11月共祭公許となり明治32年4月、車道より汐見町の社地に遷座し産土神として崇敬する」

 1781年というと、東区一帯の須佐之男社(天王社)と時期を同じくしている。
 尾張9代藩主宗睦が創建したというのは本当だろうか。他ではそういう話は出てこない。もし本当であれば、公式記録に残っていそうなのに、『尾張志』(1844年)、『尾張名所図会』(1844年)、『尾張徇行記』(1822年)などに、この天王社らしいものは載っていない。
 明治32年(1899年)に移されるまでは車道にあったという。正確な元地は分からないのだけど、車道というと名古屋城下の東の外れで、明治中頃(1888-1898年)の今昔マップでも空白地になっているから手付かずの林とかだったのではないかと思う。東の古井村とつながる道沿いとかに建っていただろうか。

 徳川宗睦(とくがわ むねちか)は、尾張藩中興の名君とうたわれた9代藩主だ。
 7代藩主の宗春が将軍吉宗の質素倹約に反抗して名古屋で飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ政治を行って謹慎を食らい、その後を受けた8代藩主の宗勝と息子の宗睦は尾張藩の立て直しを迫られた。
 1761年、父・宗勝の死を受けて跡を継ぎ、治水工事や人材登用などにより尾張藩の改革を成功させた。
 自らは文武両道に励み、藩校の明倫堂を作ったり、『尾張徇行記』の樋口 好古(ひぐちよしふる)を登用したりした。
 寛政の改革で知られる松平定信(陸奥白河藩主)を幕府老中に推薦したのも宗睦だったという。『愛知縣神社名鑑』にある「天明年中には白河城主松平定信は服部半蔵を代参者として天下泰平を祈願した」というのは、宗睦がこの神社を創建したというひとつの裏付けとなるかもしれない。
 天明年中(1781-1789年)の服部半蔵というと、10代目あたりだろうか。服部半蔵が忍者だったのは初代(保長)だけで、2代目(正成)からは江戸で武士になっていた。12代目で明治維新を迎えることになり、服部半蔵の名前はそこまでとなった。
「十四代藩主慶勝は家老志水忠賢を代参者として奉幣を盛大につとめた」というのは、慶勝が宗睦の藩政を理想としていたことと無関係ではなさそうだ。その宗睦は吉宗の政治を見習っていたという。
 しかし、財政改革というのはどの時代のどの国でも難しいようで、宗睦も晩年は赤字財政に苦しみ、藩札の発行がその後の尾張藩の財政破綻の一因になったといわれる。

「明治廃藩後は祭祀を庶民に移し天王社を須佐之男社と改め、明治9年11月共祭公許となり明治32年4月、車道より汐見町の社地に遷座し産土神として崇敬する」という明治以降の流れは明確で分かりやすい。
 据置公許は据え置くことを公に認めるということでよく出てくるのだけど、共祭公許というのは初めて見た。共に祭るというのだから、官と民が共に祭るということだろうか。

 祭神の神漏岐命(カムロギ)・神漏美命(カムロミ)がいつ祀られるようになったのかは調べがつかなかった。かなり珍しいことで、名古屋の現存神社ではここだけだ。
 神漏岐・神漏美は、大きくいえば伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)のことといえなくもないのだけど、話はそう単純ではない。
「高天原に神留坐す(たかあまはらにかむづまります)
 神漏岐神漏美の命以ちて(かむろぎかむろみのみこともちて)
 皇親神伊邪那岐大神 (すめみおやかむいざなぎのおおかみ)」で始まる『天津祝詞』に出てくるのが神漏岐・神漏美だ。
 文字通りに捉えると、高天原に神がいて、神漏岐・神漏美が命じて伊邪那岐が云々となり、 神漏岐・神漏美と伊邪那岐は別の存在ということになる。
 正直よく分からないので、これは保留ということにしたい。
 牛頭天王と神漏岐・神漏美が同列で祀られているということは、ちょっと理解できない。なんとなくだけど、どこかの代の宮司がそんなことを言い出してそれが今に伝わったということだったのかもしれない。あるいは、何か秘めた歴史があるのか。

 神社創建で宗睦の名前が出てくるのもこの神社くらいだ。中興の名君という評価はあっても知名度は低い。名古屋の人間でもよく知らない人がほとんどではないかと思う。明倫堂の流れを汲む明和高校の生徒は知っているだろうか。
 考えてみると神社ほど長寿のハコモノは他にない。神社創建に関わっておけば後世に名前が残ると昔の人が考えたかどうかは分からないけど、そういう面は確かにある。
 名古屋城下にそのままあったら合祀されていたか廃社になっていたかもしれない天王社が汐路町でこうして立派な須佐之男社になって残った。移したことはお互いにとって良い結果になったのではないかと思う。


作成日 2017.9.1(最終更新日 2019.3.18)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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