熱田前新田にあった氏神三社のうちの一社。 熱田前新田は1800年(寛政12年)から1801年にかけて第9代尾張藩主・徳川宗睦の命で熱田奉行の津金文左衛門胤臣(つがねぶんざえもんたねおみ)が現場監督として開発を行った干拓新田だ。 中川から東を東ノ割、中川と荒子川の間を中ノ割、荒子川から西を西ノ割と呼び、それぞれに氏神を祀った。東ノ割が辰巳町の稲荷社、中ノ割の氏神が本宮町の龍神社、西ノ割がこの善進町の神明社だった。 熱田前新田については池鯉鮒社(魁町)のページに書いた。 『尾張志』(1844年)の熱田前新田の項には「稲荷社二所 神明ノ社 龍神ノ社」とある。稲荷社のもうひとつがどこのことなのかちょっと分からないのだけど、氏神三社の顔ぶれは変わっていない。 『尾張徇行記』(1822年)が熱田前新田の神社について何も書かなかったのは何故だろう。
『愛知県神社名鑑』はこう書いている。 「創建は享和二壬戌年(1802)9月5日、という。明治5年、村社に列格する。昭和34年9月伊勢湾台風により被災するも氏子の熱意により復興した」
境内の由緒碑によると、創建は享和2年(1801年とあるが1802年の間違い)で、土古山新田南堤の西詰、荒子川左岸に鎮座したとある。 現在地に遷座したのは大正14年(1925年)という。 今昔マップ(1888-1898年)で確認したところ、今の場所からみて北東約300メートルのところに鳥居マークがある。これがそうだろうか。現住所でいうと寛政町9丁目だ(地図)。 1932年(昭和7年)の地図からは現在地に鳥居マークが描かれ、旧地と思われる場所の鳥居マークは消えているから、たぶんそうだと思う。 旧地の東300メートルほどのところに二名社(地図)があり、二名社はかつて善進の神明社と一緒になっていた時期があったという話がある。ただ、1888年の地図から二名社の場所にはずっと鳥居マークがあって動いていない。二名社の創建は1859年というから、幕末から明治前期にかけてのことだろうか。もしくは、熱田前新田の神明社が一時的に二名社に移されたということかもしれない。 この神明社も港区の他の神社同様、東南海地震や第二次大戦、伊勢湾台風の被害に遭っている。 現在の社殿は平成13年(2001年)に建て直されたものだ。
善進町(ぜんしんちょう)の由来はよく分かっていない。村の若い衆が会合を開くときに善進と称していたからともいう。 昭和27年(1952年)に寛政町、十一屋町、油屋町、当知町の各一部より成立した。 現在の善進町の地域は、熱田前新田の西部、甚兵衛新田(当知新田)の南東端、甚兵衛後新田の東端をあわせた範囲ということになる。善進本町は熱田新田の一部に当たる。
神社には特殊神事として神楽巡行と棒の手が伝わっている。 棒の手は真影流(しんかげりゅう)という流派で、弘化元年(1844年)ごろに始まったと伝えられ、熱田神宮(web)の祭事に馬の塔とともに奉納されていた。 昭和48年(1973年)に名古屋市の無形民俗文化財に指定された。 現在も神明社の秋の大祭に奉納演技が行われる。 神楽(かぐら)というと一般的には祭礼で神に奉納する舞や祈祷などをいう。獅子神楽、巫女神楽、神楽太鼓などがそうだ。 尾張地方における神楽は、そういった無形の神楽と神楽屋形のことも指している。 その中でも名古屋西南部(中村区、中川区、港区)では神楽屋形と神楽台をあわせて神楽と呼んでいる。 名古屋市内はたくさんの神楽が伝わっていて、港区だけでも30台以上が現存している。豪華な彫りを施した華麗なもので、各神社の例祭で出る他、名古屋まつり(web)にも参加しているので、見たことがある名古屋人もけっこういるんじゃないかと思う(神楽揃)。 善進町神明社の例祭は10月の第二日曜日に行われている。
作成日 2018.7.15(最終更新日 2019.7.24)
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