鬼頭景義が開発した東福田新田(1640-1643年)の中で知多郡屋敷と呼ばれる集落の氏神として建てられた。 知多の地名は、知多半島から移住してきた人たちの集落だったことから来ているとされる。 そのあたりについて『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「寛永二十一年(1644)知多郡大府より移住者郷里の氏神を別け戴いて新田の経営に励んだ。明治9年11月30日、村社に公許あり、昭和58年12月10日、本殿・拝殿を改築し、昭和61年8月社務所を改築した」 新田村の氏神として山の神である大山祇(オオヤマツミ)を祀るのは違和感があるけど、移住者達が故郷の氏神をこちらに分霊して祀ったというのであれば合点がいく。 このあたりは船の運行の便がよくて知多浦などから多く行き来していたことが地名の由来という説もある。 神社南の南農協前交差点と知多南交差点の東西の道が、東福田新田ができた頃の海岸堤防だった。
『尾張志』(1844年)の東福田新田の項に「山神ノ社」は載っている。 『尾張徇行記』(1822年)には、「横井村祠官二村長門守書上帳ニ、山ノ神社 此社ハ寛永二十一年巳年勧請也」とある。 寛永21年は1644年なので、東福田新田が完成した1643年の翌年に建てられたということだ。この頃に知多から移住者がやって来て集落を作り、神社を祀ったということだろう。
旧地の山神社は、四国(愛媛県今治市)の大三島にある大山祇神社(しまなみ観光web)から勧請したものだという。 大山祇(オオヤマツミ)は三島明神とも呼ばれており、三島神社の総本社が大山祇神社とされていたことから大三島(おおみしま)といい、それがそのまま島の名前になった。 瀬戸内海に浮かぶ大三島は鷲ヶ頭山(436.5メートル)を御神体とする神の島とされ、大山祇神社は鷲ヶ頭山の西麓に鎮座している。かつては大三島の南東部にあったとされる。 非常に古い神社で、オオヤマツミの子孫の小千命(おちのみこと)が創祀したのが始まりという。 伊予国一宮で、『延喜式』神名帳(927年)には名神大社として載っている。 山の神というだけでなく海の神ともされ、中世以降は戦の神として武将からも崇敬された。 オオヤマツミはイザナギとイザナミの子で、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と磐長姫(イワナガヒメ)の父として『古事記』、『日本書紀』に登場する。 降臨した瓊瓊杵尊(ニニギ)とコノハナサクヤヒメが出会い、ふたりは結婚することになるのだけど、姉のイワナガヒメも一緒にもらってもらおうとしたところ、ヒワナガヒメの容姿が気に入らないとニニギに送り返されて怒ったのがオオヤマツミだった。長寿を象徴するイワナガヒメをめとらなかったことで天孫族は永遠の命を得ることができず短命になるだろうという呪いのような言葉も発している。 オオヤマツミを祀るもうひとつの代表的な神社が、静岡県三島市にある三嶋大社(web)だ。 三嶋大社は大山祇神社から勧請したという説と、そうではないという説があり、主祭神は時代によってオオヤマツミだったり事代主神(コトシロヌシ)だったりした。現在はオオヤマツミと積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)の二柱を祀っている。
今昔マップの明治中頃(1888-1898)を見ると現在の神社があるのは知多集落の西南端だったことが分かる。鳥居マークはないものの樹林マークがあるので、これがそうだろう。 1920年(大正9年)の地図には鳥居マークが描かれている。 もともと知多集落の戸数は少なく、戦後に至るまであまり増えなかったようだ。山神社は第二次大戦の空襲で焼けているので、集落も被害を受けただろう。 1960年代になると、南の東海通沿いに民家が並ぶようになった。まだ田んぼは多く残っている。 1970年代に民家が増えた。 1990年代にかけてゆるやかに民家が増えて田んぼは姿を消していった。
現在の社殿は昭和58年(昭和60年とも)に再建されたもので、まだ新しさが残っている。 拝殿、祭文殿、本殿が一体化した鉄筋コンクリート造だ。 本殿は神明造で、千木は外削ぎとなっている。
知多半島は神楽(かぐら)が盛んな地区で、その流れを受けて山神社にも神楽が伝わっている。安政6年(1859年)以前の作とされる。 毎年、10月の名古屋まつり(web)にも参加しているという。
山など一切ない港区にあって唯一の山神社が知多にあるこの山神社だ。 『愛知縣神社名鑑』に「やまのかみ」とフリガナが振ってあるので、「やまのかみ-しゃ」が正式な呼び方なのだろう。 人工的に作った土地だから、いっそのこと山のひとつも作ってみてはどうだろう。まったく山がないというのも考えてみると寂しいものだ。
作成日 2018.8.16(最終更新日 2019.7.30)
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