現住所の大当郎(だいとうろう)は江戸時代の大蟷螂村(だいとうろうむら)から来ている。 しかし、大当郎1丁目は江戸時代には中須村だったところだ。大蟷螂村の集落は現在の大当郎3丁目のあたりだ。 江戸時代中期の1784年(天明4年)に庄内川の付け替え工事が行われて、中須村は庄内川を挟んで西と東に分かれる恰好になってしまった。今の大当郎1丁目が中須村の本郷で、川東は中須町がそれに当たる。 なので、大当郎の神明社は中須村の神社ということになる。 その状況は今昔マップ(1888-1898年)を見ると分かる。
江戸期の書の中須村の項はそれぞれ以下のようになっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社三ヶ所 内 神明 浅間 斎宮司 横井村祢宜 甚太夫持分 前々除」
『尾張徇行記』(1822年) 「神明社浅間社斎宮社界内四畝二十五歩前々除 府志云、神明祠三狐神祠倶在中須村 横井高野宮祠官二村長門守書上張ニ、神明浅間二社境内三畝十五歩備前検除 此社勧請ハ知レズ、再建ハ元和七酉年也」
『尾張志』(1844年) 「神明ノ社 境内に浅間社あり サグジノ社 上之切という所にあり」
神明社と浅間社が一緒になっていたようだけど今もそうなのか。祭神は天照皇大神のみなので相殿や合祀ではなさそうだ。 横井村の祠官が持っていたようだけど、横井村はけっこう遠い。今の中村区横井がそうだ。
『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。明治5年7月、村社に列格する」としか書いておらず、再建については触れていない。 境内にある由緒書きの石碑は下半分がよく読めないのだけど、元和三年9月に愛智郡中須村に建てられたというようなことが書いてあったと思う。 ただ、元和3年(1617年)は『尾張徇行記』によれば再建の年で創建年ではない。前々除や備前検除となっていることからしても1608年にはすでにあったのは間違いない。 『中川区の歴史』は再建を元和7年(1621年)としているけど、何か根拠があるだろうか。 その後、明治28年(1895年)に現在地に移されたようなことが書かれているも、文章が分かりづらい。 昭和43年(1968年)に庄内川の堤防改修に伴って遷座したとあるのだけど、今昔マップで変遷を辿っても明治以降は動いていないように見える。
以上のように少し混乱は見られるものの、この神社は江戸時代以前に建てられた中須村の神明社だったということだ。 大当郎1丁目の住人のみなさんが実は中須村だったということを知っているのだろうか。
作成日 2017.11.3(最終更新日 2019.7.5)
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