神明社(大当郎)

中須から大蟷螂に引っ越してきた

大当郎神明社

読み方 しんめい-しゃ(だいとうろう)
所在地 名古屋市中川区大当郎1丁目707番地 地図
創建年 不明
社格等 村社・十五等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)
 アクセス

・近鉄名古屋線「伏屋駅」から徒歩約26分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 大当郎にある神明社。
 ここはかつての大蟷螂村だったところだ。
 江戸時代の『尾張志』、『寛文村々覚書』、『尾張徇行記』の大蟷螂村に神明社はない。明治以降に他から移されたのだろうと思ったら、答えが境内の由緒書きにあった。
 石碑の下半分が読みづらくてよく分からないのだけど、要約するとこうだ。
 本殿の棟札によると、元和三年9月に愛智郡中須村に建てられたとある。
 元和三年は1617年だから江戸時代の前期だ。中須村は大蟷螂村から見て庄内川を挟んで東南にあった。
 その後、修繕などのことが書かれており、大蟷螂村に遷座したのは明治28年(1895年)ということになるのだろうか。このあたりの文章もちょっと分かりづらい。
 昭和43年(1968年)に庄内川の堤防改修に伴って現在地に移されたらしい。
 ということは、以前は庄内川の川沿いか、堤防上にでもあったということだろうか。
『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。明治5年7月、村社に列格する」とだけ書いている。由緒記にある本殿棟札の記録を見落としたのか、あえて採用しなかったのか。
『愛知縣神社名鑑』は、独自に調査して書いているわけではなく、神社が提出した記録を元にまとめているだけかもしれないので、いろいろと見落としやおかしな点があったりする。改訂版を出すなら名古屋エリアだけでもお手伝いしたいくらいだ。

 大蟷螂村の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中でこんなふうに書いている。
「蟷螂の二字は俗字にして取にも足らず 正字大棟梁村の義なり 尤中古以降の地名にて始より字音なり梁をラウと唱ふるは東音也(東音とは日本制の字音をいふ) 永正六年の熱田講式に日本大棟梁の社と書たるをもてもしるべし 此村にも熱田大神を祀るか今日白山の宮あり」

 まず、大蟷螂村は「だいとうろうむら」と読む。
 蟷螂は昆虫のカマキリのことだ(蟷螂目)。
 この蟷螂は当て字で、もともとは大棟梁から来ていると言っている。
「永正六年の熱田講式に日本大棟梁の社と書たる」という部分はちょっと分からない。
 永正六年は戦国時代の1509年で、ここでいう講式(こうしき)というのは、仏や高僧の業績をたたえる声明(しょうみょう)のことというよりも、熱田社に関する講会(こうえ)の記録みたいなものだと思う。
 国立国会図書館デジタルコレクション「熱田講式」で読むことができるので(一部?)、興味のある方は読んでみてください(難しすぎて私には理解不能だった)。
「日本大棟梁の社」というのが何を意味しているのかもよく分からない。
 いずれにしても、津田正生としては熱田社の宮大工の棟梁が住んでいたから大棟梁村と呼ばれ、それが大蟷螂に転じたと言いたいようだ。
 別の説として、海を行く船の目印のために大きな灯籠を置いていたことから大灯籠と呼ばれ、後に大蟷螂になったというものもある。
 どちらの説も定説とするには少し無理があるだろうか。「とうろう」に蟷螂を当てる必然が説明できないのは弱い。村の名前にあえて昆虫の名前を当てたのは意味があったのではないか。実際、カマキリが村名に関係しているかもしれない。

 中須村には、神明社と浅間社と斎宮社があったと『尾張志』や『尾張徇行記』などに書かれている。
 浅間社は神明社の境内にあるとしているので、江戸時代にはすでに神明社に移されていたようだ。斎宮社は、中須に齊宮社として残っている。
 今の大当郎の神明社に浅間社らしき境内社はない。本殿に合祀しただろうか。
 どうして中須から大蟷螂に移されることになったのか、その理由についても分からずじまいだった。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

大当郎に引っ越してきてから120年余りの神明社

HOME 中川区

スポンサーリンク
Scroll Up