勝手塚古墳の上にあるから勝手社ではなく、勝手明神を祀っているから勝手社で、勝手塚古墳は勝手社があるからそう呼ばれているだけで、これは近代に名づけられたものだ。 ここ志段味地区は古墳密集地帯というだけでなく旧石器時代から人が暮らす土地だった。紀元前1万年から紀元前2千年というから、名古屋市内で一番最初に人が暮らし始めた場所といえるかもしれない。 古墳は現在確認されているだけで66基あり、その内半分の33基が現存している。4世紀から7世紀にかけて、途中空白期間を挟みながら長い期間築造が続いたのも志段味古墳群の特徴のひとつとなっている。 代表的なものとしては白鳥塚古墳がある。全長115メートルの前方後円墳で4世紀前半の築造と考えられており、尾張地方では最初に築かれた大型の前方後円墳とされる。大きさでいっても熱田の断夫山古墳(151メートル)、犬山の青塚古墳(123メートル)に次いで3番目に大きい。 同時期の古墳としては東谷山山頂の尾張戸神社古墳がある。これは4世紀前半の円墳とされている。 全体としてみると、前方後円墳が2基、帆立貝式古墳が5基、円墳が50基、方墳が1基、その他墳形不明となっている。 勝手社がある勝手塚古墳は、全長53メートルの帆立貝式古墳で、古墳密集地帯から少し離れた場所にある。多くが山地や高位・中位段丘上にあるのに対して、勝手塚古墳は低位段丘上にあり、築造時期は6世紀初めとされる。 円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、人物埴輪などが出土している。二重の環濠で囲い、埴輪を周囲に並べていたと考えられている。 6世紀初めといえば熱田の断夫山古墳が築造される少し前だ。志段味地区の集団が熱田に移って断夫山古墳を築いたとする考えもあるけど、断夫山古墳や白鳥古墳以降も志段味地区では7世紀まで古墳築造が続いていることからしても、熱田の集団と志段味の集団は別と考えた方が自然だ。熱田の北には高蔵古墳群もある。 中央のヤマト王権と強いつながりを持った尾張氏が5世紀末までには尾張を統一したとされるも、当初はゆるやかな共存だったのではないかと思う。尾張戸神社も、尾張氏が創建した神社とは違うかもしれない。
勝手社が創建されたのは鎌倉時代末、もしくは室町初期の南北朝時代とされる。南北朝時代の争いに敗れた武将がこの地にやってきて勝手明神を祀ったという説と、水野氏の本拠だった志段味に一時帰国した水野又太郎良春が吉野山の勝手明神を勧請したという説がある。 『愛知縣神社名鑑』は水野良春説をとっている。 「社伝によれば南北朝の頃(1332~)南朝に属した、水野又太郎良春郷里に帰り吉野勝手明神を勧請して鎮座したという。神社は前方後円墳の二重堀の上に鎮座する。明治42年5月26日、許可をうけ、同年6月15日に字川原136番、無格社八剣社と字上ノ島761番、無格社山神社の両社を合祀した」
水野良春(みずのよしはる)は、桓武平氏高望流、平良兼の子孫とされる。 平高望(たいらのたかもち)は、桓武天皇の孫(またはひ孫)で、臣籍降下して平高望を名乗った。 高望は上総介に任じられて上総国へ移り、関東で基盤を作った。平将門もこの一族だ。 平良兼は平高望の次男に当たる。 その後、良兼の子孫が尾張国山田郡水野郷(瀬戸市)に本拠を置いてこの地を治めていた。 1221年の承久の乱では山田重忠と共に水野氏は一族で朝廷側として戦った。このとき戦に参加した基家のひ孫が良春とされる。 そういった経緯もあり、良春は吉野で生まれ育っている。1331年の元弘の乱では良春は吉野金峯山寺僧兵団の将として戦った。 しかし、後醍醐天皇による建武の新政(1333年)が始まると、それに失望したのか、一族の本拠に近い志段味に戻った。そのとき、吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神のひとつ、勝手明神を勧請して古墳に勝手社を建てたとされる。 志段味城築城がこのときだったのか、再び吉野へ行って戻ってきた後なのかはっきりしない。場所についてもいくつか説がある。上志段味だったのか中志段味だったのかさえ分かっていない。 1336年、足利尊氏が後醍醐天皇を見限ったことで建武の新政は崩壊。天皇が二人同時に存在する南北朝時代が始まる。 良春は南朝のある吉野に戻り、南朝方として転戦する。 志段味に戻った年ははっきりしないのだけど、1350年前後だっただろうか。 より肥沃な南に移って新居村(あらいむら)を開いたのが1361年とされる。 多度神社を創建し、屋敷神として子守勝手社を祀ったという。 1368年に弟の報恩陽を定光寺から招いて退養寺を開山し、1374年には新居城を築いた。そして、この年に没している。
勝手明神は吉野八社明神のひとつで、吉野大峰山の鎮守とされた。 山頂近くに金峯神社(奥千本)、山腹に吉野水分神社(上千本)、山麓に勝手神社(中千本)が建てられた。 勝手は、入り口、下手を意味し、山口神社とも呼ばれた。 吉野水分神社祭神の子守明神と勝手明神は夫婦神で、蔵王権現、勝手明神、子守明神は三身一体とされた。 勝手明神の勝を勝つになぞらえられ、戦の神としても崇敬を受けた。 吉野に逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が琴を奏でたら天女が舞い降りて袖を振ったから袖振山の名が付いたとか、追われる義経と別れた静御前が舞を舞ったなどといった伝説の舞台ともなった。 良春が志段味に勝手明神を祀ったのであれば、良春にとって勝手明神は戦の守り神だったのだろう。 全国に勝手社が28社あるという。志段味の勝手社もそのうちの一社となっているだろうか。
『尾張名所図会』(1844年)は南朝説を採り、こう書く。 「むかし南朝の属民等、亂をさけて此村にありしが、吉野の勝手の神を勧請してここに祀りしを、いつしか廢して、石の小祠のみ存す。老樹繁り、大竹生じて、頗る神さびたり。里人勝手の名によりて、旗竿を切り出せしも、今は此事やみたり。素より當所は古き地にて、『和名抄』の志誤(しだみ)とあるは志談(しだみ)の誤字なりといふ。又當國山の麓に、石窟の崩れたる跡多し、神代の人の住みし石穴のよしいひ傳へたれど、古墳の石棺のあばけたるならん」
これらの説とはまったく違うことを津田正生は『尾張国神社考』の中で書いている。 それによると『尾張國内神名帳』の従三位實々天神は勝手社だという。もしそうであれば、勝手社は平安時代もしくはそれ以前に創建されたということになる。 「社號をみみと讀(よむ)より餘(ほか)に考へるなし。正字水海(みみ)の義なるべし、然ば上志段味村に子守勝手の祠あり、是なるべし」と言い切っている。 その根拠として、吉野の吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)の「水分(みまくり)」が「みこもり」に転じて、御子守の神とされ、子守明神と称されるようになったことを例に挙げ、それと同じではないかといっている。 勝手明神も子守明神も同じ吉野由来ということで、この説もなくはないのではないか。
現在の祭神は忍穂耳尊になっている。 これは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命/正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)の勝つながりで明治になって当てはめたものだろう。 アマテラスとスサノオとの誓約(うけい)で生まれた五男三女神の長男で、アマテラスから地上(葦原中国)に降臨するよう命じられたのを最後まで拒んだ神だ。最初、地上は物騒だからイヤだといい、タケミカヅチが平定した後は息子のニニギの方が向いているといって天にとどまった。 我は勝ったといってるけど、神として祀られるようなことは特にしてない。
江戸期の書の上志段味村の項は以下のようになっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社三ヶ所 内 勝手明神 山之神 大明神 中志たみ村祢宜 市太夫持分 社内壱反九畝歩 前々除」
『尾張徇行記』(1822年) 「上志談味村 同村(中志段味村)祢宜水野孫太夫書上ニ、八劔大明神社内三畝十歩前々除、勝手大明神社内二畝二十歩、山神社内一畝廿歩共ニ前々除、此三社勧請年暦ハ不知、再建ハ元禄十二己卯年ナリ 府志曰、勝手明神墟、在上志段味村、老樹鬱葱、中有二祠遺址、曽有大竹、諸士人伐旗竿、今為鹿食筍、竹巳不生、伝曰、南朝遺民避乱、移居此邑、時請芳野神社建之」
『尾張志』 「八劔社 勝手社 山神社 上志段味むらにあり」
もともと上志段味村の氏神は八劔社だったのが、明治42年に山神社と共に勝手社に合祀されて以降は勝手社が氏神になった。どうして八劔社に合祀せずに勝手社に合祀したのか、そのあたりのいきさつは分からない。この年まで村の3社がすべて無格社だった理由も不明だ。
新盆の入りの日の8月13日には茅の輪くぐりと提灯祭りが行われているという。 108灯の瓜提灯を付けた提灯山を境内に立て、盆踊りが行われるそうだ。 秋には水野良春が伝えたという棒の手の奉納もある。
ところで、この勝手社は誰の墓なんだろう。尾張氏の関係なのか、別の集団の首長なのか。 たくさんある古墳の中から何故水野良春はこれを選んだのか。鎌倉末ではすでに被葬者については分からなくなっていたんじゃないかと思うけど、地理的なものだったのか。どうして勝手明神だったのかも気になるところだ。 神社で一番分からないのは、「いつ」でも、「誰が」でも、「どこに」でもなく、「何故」という理由の部分だ。それは記録に残りにくく、伝わりにくい。想像するしかないのだけど、それすら難しい。
作成日 2018.5.19(最終更新日 2019.1.25)
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