昭和33年(1958年)に創建された新しい神社。 江戸時代までは源兵衛新田と呼ばれる農地で、大正から昭和初期にかけて宅地化されていき、昭和12年の大同特殊鋼星﨑工場ができたことで町は大きく生まれ変わった。 神社があるあたりにも多くの住宅や社宅が建ち、人口も増え、町に神社を建てようという話になった。昭和33年といえば、高度経済成長期まっただ中で、日本人が希望を持って頑張っていた時期だ。まさか翌年に伊勢湾台風に襲われるとは思ってもみなかっただろう。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「街区次々に開発せられ氏神なきを憂え町内の総意により神社を建立する。昭和33年6月28日、熱田神宮より御分霊を請け鎮座祭を行う。昭和34年10月5日、神社本庁の承認を受けた」 熱田神宮(web)から勧請して熱田大神を祀って建てたことが分かる。 神社本庁からの承認が出たのが昭和34年の10月5日とある。伊勢湾台風が上陸して大被害を出したのが9月26日だから、その9日後だ。このタイミングじゃないと駄目だったのかがちょっと気になった。 神社は被害を受けたなどの情報がないところをみると難を逃れただろうか。
『南区神社名鑑』はこれとは別の話を紹介している。 神道先達者の渡辺とくという人が神懸かりになって、八大竜王が世の中を救うための神社を建てよというお告げがあり、それを受けて内田橋木材社長の今枝勝一氏などが中心となって建立委員会を立ち上げ、昭和33年に神社を建てたというのだ。 現在の社は、中央に熱田大神を祀り、左右に八大竜王社と天龍白姫龍神社を置き、それぞれ祓戸大神と貴船神社の姫神・天龍白姫を祀るとしている。 町内で熱田大神を勧請して神社を建てたのと、神懸かりのお告げで八大竜王を祀ったというのとでは話が全然違ってくる。それともそれぞれ同じ年にあった別の話で、一緒の境内に祀ったということだろうか。 戦後の昭和30年代でもこういう話があって、それが今に伝わっているというのはなかなか興味深い。実際にあったであろうことは想像できる。お告げが真実かどうかよりも、周りが信じて動いたという事実の方が重要だ。
八大竜王というのは、法華経で仏法を守る竜族の八王のことだ。 古代インドの半身半蛇のナーガが元にあって、それが仏教に取り込まれて竜王とされた。 釈迦の説法を聞いた眷属(けんぞく)のうちのひとつで、悟りを得て護法の神となった。 難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、娑伽羅(しゃがら)、和修吉(わしゅきつ)、徳叉迦(とくしゃか)、阿那婆達多(あなばだった)、摩那斯(まなし)、優鉢羅(うはつら)の八竜王がそれに当たる。 古くから八大竜王信仰というものがあって、雨乞いの神として祀られることが多かった。 天龍白姫というのはよく分からない。現在の貴船神社(web)で祀られているのは、高龗神(たかおかみのかみ)、闇龗神(くらおかみのかみ)、磐長姫命(いわながひめのみこと)だ。天龍白姫とはどの神を指しているのか。 龗神は水の神であり龍神といえば龍神といえるか。
千鳥の名称は、鳴海(なるみ)の歌枕の千鳥から来ているのだと思う。 芭蕉がこの地を訪れたときに歌った「星﨑の闇を見よとや啼く千鳥」などもそのひとつだ。 古くから千鳥は多くの歌で歌われてきた。 千鳥はチドリ科の鳥の総称でもあり、多くの鳥という意味でもある。 神社南にある小学校は千鳥小学校だ。 神社がある鳴浜町(なるはまちょう)は、昭和9年に鳴尾町の一部より成立した。 鳴尾町の鳴とかつて浜辺だったことから来ているという。
鳴海潟の干潟で鳥たちが群れてエサをついばんでいる光景は遠い昔となった。その風景を実際に見たわけではないけど懐かしく感じられる。名古屋港の藤前干潟だけでも残ってよかった。
作成日 2018.2.25(最終更新日 2019.8.20)
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