かつての高田村にあった6社(もしくは7社)のうちの1社。 『尾張志』(1844年)では、「八剱ノ社 熱田ノ社 一之御前ノ社 八幡社 富士ノ社 八幡ノ社 高田村にあり 永禄七甲子年当村城主村瀬浄心勧請せし由元禄七年甲戌五月の棟札にあり」と書いている。 永禄7年は1564年なのだけど、この八幡社はどうやらもっと古い時代の創建のようだ。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。熱田神宮と縁故深き神社なり。『熱田祭奠年中行事故実考』鎮座本義の項に”愛知郡高田村の神ノ内より奉仕、応永、長禄(1394-1457)の遷宮式狛犬、幕串を持ち供奉す云々”とある。明治6年、据置公許となる」
『熱田祭典年中行事故実考(あつたさいてんねんじゅうぎょうじこじつこう)』は、寛政7年(1795年)の写しが残っていてデジタルアーカイブ(web)で読むことができる。熱田社の年中行事(祭事)がまとめられた書だ。 応永、長禄は室町時代なのだけど、それだけでなく『熱田神宮史料』の「年中行事編」の中で、「高田村神之内八幡より呪師一人出す」とある。 呪師(じゅし)というのは、平安時代から鎌倉時代にかけて行われた芸能ならびに演者のことをいう。 神事というよりは仏教行事寄りのもので、僧侶役に扮した呪師や寺院に属する猿楽法師などが、神や仏の教えなどを分かりやすく演じてみせるといったようなものだ。神社の場合は、氏子の中から選ばれて遷宮式などで奉仕したという。 これから考えると、この八幡社は鎌倉時代にはすでにあったと考えていいのではないか。 高田城は尾張源氏の高田四郎重家の邸宅が元になっているという説があり、高田四郎重家は源平の戦いのときに活躍した平安時代末の武士だから、その関係もあって八幡社が創建された可能性もありそうだ。
熱田社との関わりを示すものとして八幡社への提灯奉納がある。 八幡社には熱田社から勧請した南新宮があり、素戔嗚尊を祀っている。 熱田社の天王祭りには提灯を奉納する習わしがあったのだけど、近所の人は神之内八幡に参って、「提灯ヨ、バイバイヨ、高田ニ置イテキタヨ」とここに奉納しても御利益は同じとされたという。 この風習は大正時代末で続いたというから、近くのお年寄りはまだ覚えているかもしれない。
境内に肴瓮石(なべいし)と呼ばれる石が祀られている。 それにはこんな逸話が伝わっている。 尾張を巡っていた弘法大師空海が高田村の海上寺に立ち寄ったとき、子供たちが集まって石をたたいてた。その音色を聞いた弘法大師は、唐から伝わった肴瓮石だと気づき、この石に願い事をすれば頭痛や歯痛が治ると村人に伝えたという。 その後、その石を八幡社で祀るようになったのだとか。
やはりここは村瀬浄心が戦国時代に創建したものではなさそうだ。創建はそれよりもさかのぼるはずだ。 神之内という地名も特別なものを感じるし、創建自体に熱田社が関わっていた可能性もある。 ちなみに、今の町名の北原町は昭和9年(1934年)成立で、本願寺村の北にあることから名づけられた。 現在の八幡社は、街中に取り残された変哲のない小さな神社という風情でしかなく、この神社に何か感じるようなことはなかった。 過去と現在は連続する時間でつながってはいても、歴史は必ずしも受け継がれるわけではない。だからこそ、伝統は守り伝えていかなければいけないのだけど、残念ながら途絶えてしまったものも少なくない。
作成日 2017.9.14(最終更新日 2019.3.26)
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