別小江神社

二重もしくは二社合体の謎多き社

別小江神社拝殿

読み方 わけおえ-じんじゃ
所在地 名古屋市北区安井 4-14-14 地図
創建年 不明
社格等 式内社・村社・七等級
祭神

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
月読尊(つくよみのみこと)
蛭子命(ひるこのみこと)

 アクセス

・地下鉄上飯田線「上飯田駅」から徒歩約25分。
・駐車場 あり

webサイト  公式サイト
オススメ度 **

 この神社について分かっていることは少ない。
『延喜式神名帳』にある山田郡別小江神社とされていること。
 かつてここより300メートルほど東北の千本杉というところにあり、1582年に織田信勝(信雄とも/信長の次男)が命じて現在地に移されたこと。
 江戸時代は六所明神と称していたこと。
 別小江神社と改称したのは明治初めのこと。
 大まかに言うと、以上だ。
 けど、どうにも気に入らない。気に入らないというか納得できない。

 まず前提として、『延喜式』にある別小江神社と現在の別小江神社は分けて考える必要があるということだ。
 オリジナルの別小江神社に関してはほぼ何も分からないといった方がいい。創建年も、由緒も、祭神も、創建者も、創建された場所も定かではない。
『延喜式神名帳』に尾張国山田郡別小江神社、『尾張国神名帳』に従三位別小江天神とあるから、927年に神名帳が完成したときには確かに存在した官社には違いない。
 江戸時代後期の1844年に完成した『尾張志』には、「延喜式に見えて、今所在詳ならす」とある。その頃にはすでに分からなくなっていたということだ。
 では、六所明神として『尾張志』に載っているかというと、それが載っていない。そこがまずよく分からない。
 ただ、1655-1658年頃に行われた調査をまとめた『寛文村々覚書』の山田庄安井村の項に、「社弐ヶ所 内六所大明神 山神」とある。江戸時代前期には六所明神が確かに存在している。
 明治に入って神仏分離令が出され、あらたな神社の格付けを行うため、全国の神社について詳細な調査をすることになった。なかなか調査が進まず苦労したようで、明治9年(1876年)になってようやく『特選神名牒』(とくせんしんみょうちょう/じんみょうちょう)としてまとめられた。『延喜式神名帳』の注釈書といったものだ。
 その中で、浅野勝行(浅野長政の父)がこの村に移り住んで大江八幡を祀ったときに別小江神社の神主・稲垣十太夫に与えた免状に「別小江神社其書は社人の事候間、五百文余修造候云云、天正十二年2月15日、勝行(花押) 稲垣十太夫殿」という書状があるから、それをもって六所神社を別小江神社とするとある。
 ちょっとよく分からないのだけど、六所神社は千本杉というところから移ったという伝承があり、浅野勝行が修造費用を出して、別小江神社というのはあなたのところの神社ですよと言ってるのだから、じゃあ六所明神は別小江神社ってことじゃないのということになったと理解していいのだろうか。
 しかし、この話もやや怪しいところがあって、浅野長政の父を勝行としてるけど、一般的に浅野長政の義父は浅野長勝(あさのながかつ)として知られている。勝行と名乗ったことがあるのかどうか。
 長勝は弓衆を率いて信長に仕えた武将で、天正年間にここへやってきて安井城を築城したとされるから年代的には辻褄が合っている。
 子供がいなかったため、養子としたのが浅野長政で、のちに豊臣政権の五奉行筆頭となった。
 同じく養子にしたふたりの女の子のうちのひとりが、おねで、のちに秀吉の正室となる。
 安井城は、現在、山神社やお福稲荷がある場所の南西一帯にあったとされており、150メートル四方のかなり大きなものだったと伝わっている。
 食い違っている点として、安井城の鬼門として祀ったのは山神社とされていることだ。『寛文村々覚書』にも六所明神と山神社の二社があると書かれている。八幡社を祀ったというのは本当だろうか。

 もうひとつ大きな疑問点がある。1584年に織田信勝が千本杉にあったこの神社を移させたという話だ。
 何故そんなことをしたのか? 何故信勝が?
 1584年といえば、小牧長久手の戦いがあった年だ。
 1582年に本能寺の変で父・信長と兄で嫡男の信忠が死に、信勝と秀吉の間で後継者争いが起こり、信勝が家康に泣きついて秀吉対家康という構図で小牧長久手の戦いに発展する。信勝このとき27歳。
 1584年早々に、秀吉と信勝は話し合いを持つも決裂。秀吉は信勝討伐令を出し、秀勝は伊勢の長島城に戻った。
 3月、秀吉にだまされ、信勝は家来の三老臣を殺害。
 同じ月、小牧の戦いが始まる。
 4月、長久手の合戦。
 最終的には信勝が勝手に秀吉と和睦してしまったため、家康は秀吉と戦う理由を失い、11月に秀吉と家康が和解。信勝は秀吉の配下となり、その後各地の戦に従軍することになる。
 1584年は、信勝にとって人生でもっとも忙しかった年であり、その後の行く末を決める重要な局面を迎えていた。伊勢やら安土やら清洲やらを飛び回る中で、わざわざ特別関係があるとも思えない尾張の神社の移動を命じたりするだろうか。普通に考えたら、そんなことをしている場合ではない。
 1584年(天正十二年)は、浅野長勝(勝行)が別小江神社の修繕をさせたとされる年でもある。同じ年に浅野長勝が修繕させ、織田信勝が移させるなんてことがあるだろうか。
 信勝云々という話は公式サイトに書かれていることだから、確かな伝承があるのかもしれないけど、浅野長勝(勝行)の話と混同して伝わったという可能性があるのではないか。ここで織田信勝が登場するのはあまりにも唐突すぎるように思う。
<追記>
 1182年に信勝が庄内川の堤防修理をしたという記録があるそうだ。となると、庄内川近くにあった千本杉から神社を移させたという話も、必ずしも唐突なものではなくなる。
 ちなみに、信勝という人物はかなり評判が悪い。信長の息子の中で一番出来が悪かったかもしれない。身勝手な性格で野心家。たびたび信長の怒りを買って、一時は絶縁を言い渡されたりもしている。ルイス・フロイスは安土城を焼いたのは明智軍ではなく信勝だと書いている。理由もなく安土の町に火を放ったとも。家督相続の件では誰からも支持されず、織田軍団の中でもかなり浮いていたらしい。それでも、一番長生きしたのが信勝で、1630年に73歳で死去した。

 唐突な話はもうひとつあって、神功皇后の伝説がこの神社に伝わっている。
 夫の仲哀天皇亡きあと、神のお告げによって新羅を討伐すべく海を渡って朝鮮半島へ向かう際、臨月を迎えていた神功皇后は腹に石を当ててさらし(裳)を巻いて出産を遅らせ、朝鮮で三韓征伐(新羅・百済・高句麗)を成し遂げたあと、筑紫(福岡市)の宇佐で誉田別尊(ほむたわけのみこと)、のちの第十五代応神天皇を産んだとされる。
 月延石と呼ばれるその石は2つだったとも3つあったともいわれ、長崎の月讀神社、京都の月読神社松尾大社の摂社)、福岡の鎮懐石八幡宮にそれぞれ奉納されたという話が伝わる。
 出産のお世話係をしていて、その石を拾ってくるように命じられたのが尾張国造稲植(おわりのくにのみやつこいなだね)で、帰国した神功皇后から神胞(赤ん坊を包んでいたでいた膜?)をいただいた稲植は、尾張の国の安井に戻ったとき、千本杉にそれを祀ったという。
 尾張国造稲植というのは、オトヨ(乎止与命)の息子のタケイナダネ(建稲種命)のことだろうか。だとしたら、タケイナダネは安井にゆかりがあったのかどうか。
 神功皇后の実在性は意見が分かれるところではあるけど、個人的には実在したと考えている。『新羅本紀』には倭人がたびたび侵攻してきたという記述があるようだし、広開土大王の碑にも399年から400年にかけて倭が新羅を征服したので高句麗が倭をやっつけて追い払ったとある。北九州各地に痕跡や伝説も残っているし、神功皇后もしくはそのモデルとなった人物がいなかったとする方が不自然に思える。
 稲植が千本杉に祀ったのは400年代前半のこととなるだろうか。
 天武天皇治世の667年に、神功皇后と誉田別尊(応神天皇)を祀る延奈八幡社(えなはちまんしゃ)を建てたという。それはのちに延喜八幡社と呼ばれるようになり、安産の神様として人々に信仰されたといわれる。
 公式サイトに書かれている、末社(主祭神とは関係のない神を祀る境内社のこと)の八幡社は古くから安産や子供の守り神として知られていて、源義家(八幡太郎)、為義(義家の孫)をはじめ、織田、豊臣、徳川からも崇敬を受けたというのは、神功皇后の伝説から来ているのだろう。
 ただ、急にここで八幡太郎義家の名前が出てきて戸惑う。武士のヒーローであり武家の神様的な存在の八幡太郎と尾張との関わりがあったことは知らない。その流れを汲む源家ということだろうか。出典や根拠を示してもらわないと信じていいのかどうか判断ができない。もし本当に八幡太郎が大切にしたというのなら、よほど大事な社だったということになる。

 別小江神社の「わけおえ」については、庄内川と矢田川の合流点に近いから、流れが別れている場所という意味で名付けたのだろうというのが定説となっている。
 千本杉というのが地名なのか杉がたくさん生えている森のことを指していたのか、どちらなのか分からないのだけど、それが矢田川の北にあったのか南にあったのかで少し違ってくる。かつての川の流れと今の流れはかなり違っているのだろうけど、庄内川と矢田川に挟まれた場所にあったとすれば、流れが別れる場所というのはその通りだと思うけど、矢田川の南岸にあったとすればその名称はしっくりこない。
 庄内川の北岸、尾張国春日部郡に延喜式に載る乎江神社(おえじんじゃ)があり、それはすでになくなったとされる。小牧市本庄の八所社や西区比良の大江神社(六所神社に合祀)などいくつかの論社があるも、はっきりしたことは分かっていない。
 別小江は、乎江神社から別れたという意味で名付けられたという説がある。現在は「オ」と読んでいるけど、かつては「ヲ」だった。ヲエ神社であり、ワケヲエ神社だった。「ウォ」と発音し、「オ」と「ヲ」は別のものとして明確に区別されていた。乎江神社は宇江神社、魚江神社という表記が見られる。
「乎」は「ヲ」、「コ」、「ゴ」などと読み、前置詞として使う場合は、何々においてという意味になる。江は海や川、水などを表す。

 以上を踏まえた上で、間違いを恐れず私なりの推測をしてみる。
 まず、別小江神社は平安期に確かにあった。川の流れが別れる場所という意味か、乎江神社と関わりがある神社だったのだろう。
 誰が創建して、どんな神を祀っていたのかはまったく分からない。知るための手がかりがないので知りようがない。
 それとは別に、神功皇后伝説にまつわる社が千本杉にあったと思われる。それはのちに八幡社となり、安産の神として信仰されることになった。
 現在の別小江神社はオリジナルの別小江神社とは別のものではないか。江戸後期に乎江神社とともに所在不明になっていたというのなら、それは信じてよさそうな気がする。
 六所明神という神社があったのは間違いないだろう。その創建時期についてはよく分からない。
 祀られている神がイザナギ、イザナミ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオ、ヒルコと、イザナギ一家大集合となっているのは、ある時期、このあたりで六所明神が流行ったことがあったからだ。名古屋北部の北区、東区にはたくさんの六所明神関係の神社がある。
 浅野長勝(勝行)が神社の修繕をさせたという話と、織田信勝が移させたという話を両立させるためには、長勝が修繕させたのは六所明神、もしくはその前身となる神社で、勝信が移させたというのは千本杉にあった八幡社のことだった、ということであれば話は合う。
 二つの神社の話が同じものとして語られたことで混乱を招いてしまったのではないか。
 個人的な理解として、現在の別小江神社はオリジナルの別小江神社ではない。そして、古い歴史を持つ八幡社と合体している、ということになる。
 もちろん、完全に間違っているかもしれない。ただ、ひとつの可能性として思いつくままに書いてみた。詳しい人がいて、それは違うぞと教えていただけたらそれはそれで書いた意味があったということになる。私自身、もっと詳しく知りたいと思っている。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

綿神社と別小江神社のはしご

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