この神社について分かっていることは少ない。 『延喜式神名帳』にある山田郡別小江神社に比定されていること、かつてここより300メートルほど東北の千本杉というところにあり、1584年に信長の次男の織田信勝(信雄)が命じて現在地に移されたこと、江戸時代は六所明神と称していたこと、別小江神社と改称したのは明治初めのこと、大まかに言うと、以上だ。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「社伝に往古は六所明神と称したが、『本國神名帳』にある尾張國山田郡式内従三位別小江天神とある神社にして今の池(ママ)を離る事壱町程東北の方千本杉と称する所に鎮座。天正十二年(1584)織田信雄の命に従い今の所に遷座し、修造料五百文を献進する。明治5年、村社に列格、大正9年10月19日指定社となる。昭和20年空襲により焼失、昭和41年新構造により社殿を造営した」
『延喜式』神名帳にある別小江神社と現在の別小江神社を分けて考える必要がある。便宜的に神名帳にあるものを旧・別小江神社、現在のものを新・別小江神社とする。 旧・別小江神社に関してはほぼ何も分からないといった方がいい。創建年も、由緒も、祭神も、創建者も、創建された場所も定かではない。 『延喜式』神名帳に尾張国山田郡別小江神社とあるから、927年に神名帳が完成したときには確かに存在した官社には違いない。 江戸時代後期の1844年に完成した『尾張志』には、「延喜式に見えて、今所在詳ならす」とある。その頃にはすでに分からなくなっていたということだ。 現在の新・別小江神社は、江戸時代には六所社や六所明神と呼ばれていた。 『尾張志』には「六所社 山神ノ社 天道社 安井村にあり」とある。 『寛文村々覚書』(1670年頃)には「社弐ヶ所 内 六所大明神 山神」となっている。 『尾張徇行記』(1822年)はもう少し詳しい。 「社二ヶ所 内 六所大明神山神内二畝前々除 府志ニ、六所祠在安井村 社人稲垣多宮書上ニ、六所明神社内東西六間南北十間外神領田三畝共御除地 山神社内東西十間南北五間年貢地 天道森境内東西五間南北三間年貢地」 つまり、江戸時代の安井村には六所、山神、天道の三社があって、この頃までには別小江神社は失われてなくなっていたということだ。 津田正生ですら『尾張国神社考』で「天神此みやしろ今は在所をしらす」、「後人なほ考べし」と書いているくらいだから、江戸時代には完全に分からなくなっていたと見るべきだろう。安井村の六所明神がそうだとも違うとも言っていないところを見ると、この神社が別小江神社だという話自体がなかったのではないか。
明治に入って神仏分離令(1868年)が出され、あらたな神社の格付けを行うため、全国の神社について詳細な調査をすることになった。なかなか調査が進まず苦労したようで、明治9年(1876年)になってようやく『特選神名牒』(とくせんしんみょうちょう/じんみょうちょう)としてまとめられた。『延喜式神名帳』の注釈書といったものだ。 その中で、浅野勝行(浅野長政の父)がこの村に移り住んで大江八幡を祀ったときに六所明神の神主・稲垣十太夫に与えた免状に「別小江神社其書は社人の事候間、五百文余修造候云云、天正十二年2月15日、勝行(花押) 稲垣十太夫殿」という書状があるから、それをもって六所神社を別小江神社とするとある。 ちょっとよく分からないのだけど、六所神社は千本杉というところから移ったという伝承があり、浅野勝行が修造費用を出して、別小江神社というのはあなたのところの神社ですよと言ってるのだから、じゃあ六所明神は別小江神社ということじゃないのということになったと理解していいのだろうか。 しかし、この話も怪しいところがあって信用できない。浅野長政の父を勝行としてるけど、一般に浅野長政の義父は浅野長勝(あさのながかつ)として知られている。勝行と名乗ったことがあるのかどうか。 長勝は弓衆を率いて信長に仕えた武将で、天正年間にここへやってきて安井城を築城したとされるから年代的には辻褄が合っている。 子供がいなかったため、養子としたのが浅野長政で、のちに豊臣政権の五奉行筆頭となった。 同じく養子にしたふたりの女の子のうちのひとりが、おねで、のちに秀吉の正室となる。 安井城は、現在、お福稲荷・山神社・白竜社がある場所の南西一帯にあったとされており、150メートル四方のかなり大きなものだったと伝わっている。 食い違っている点として、安井城の鬼門として祀ったのは山神社とされていることで、安井に八幡社はない。大江八幡というのは実際にあったのだろうか。 1584年(天正十二年)に織田信勝が千本杉にあった神社を移させたというのは、1582年に信勝が行った庄内川堤防の工事に伴うものだっただろうか。 1582年に本能寺の変で父・信長を失った信勝は、尾張国の統治を引き継ぐことになり、そのとき庄内川の堤防工事を行っている。 1584年といえば小牧長久手の戦いがあった年で、信勝も当事者のひとりなので堤防工事や神社の遷座などやっている暇はなかっただろう。信勝はこの頃、伊勢の長島城にいたはずだ。だから、神社を移したというのが本当であれば堤防工事の1582年ではなかっただろうか。 長久手の戦いは4月に始まり、膠着状態が続いて、結局11月に秀吉と信勝が和解する形で終結した。信勝はその後、秀吉の配下となり、各地の戦に従軍することになる。 1584年というのは浅野長勝(勝行)が六所社の修繕をした年でもあるから、そのあたりとごっちゃになって伝わった可能性もある。 ちなみに、信勝という男はかなり評判が悪い。信長の息子の中で一番出来が悪かったかもしれない。身勝手な性格で野心家。たびたび信長の怒りを買って、一時は絶縁を言い渡されたりもしている。ルイス・フロイスは安土城を焼いたのは明智軍ではなく信勝だと書いている。理由もなく安土の町に火を放ったとも。家督相続の件では誰からも支持されず、織田軍団の中でもかなり浮いていたらしい。それでも、一番長生きしたのが信勝で、1630年に73歳で死去した。
唐突な話はもうひとつあって、神功皇后の伝説がこの神社に伝わっている。 夫の仲哀天皇亡きあと、神のお告げによって新羅を討伐すべく海を渡って朝鮮半島へ向かう際、臨月を迎えていた神功皇后は腹に石を当ててさらし(裳)を巻いて出産を遅らせ、朝鮮で三韓(新羅・百済・高句麗)を征伐を成し遂げたあと、筑紫(福岡市)の宇佐で誉田別尊(ほむたわけのみこと/のちの第十五代応神天皇)を産んだとされる。 月延石と呼ばれるその石は2つだったとも3つあったともいわれ、長崎の月讀神社(web)、京都の月読神社(web / 松尾大社 webの摂社)、福岡の鎮懐石八幡宮(web)にそれぞれ奉納されたという話がある。 出産のお世話係をしていて、その石を拾ってくるように命じられたのが尾張国造稲植(おわりのくにのみやつこいなだね)で、帰国した神功皇后から神胞(赤ん坊を包んでいたでいた膜?)をいただいた稲植は、尾張の国の安井に戻ったとき、千本杉にそれを祀ったという。 尾張国造稲植というのは、オトヨ(乎止与命)の息子のタケイナダネ(建稲種命)のことだろうか。タケイナダネは安井にゆかりがあったのかどうか。 神功皇后の実在性は意見が分かれるところではあるけど、個人的には実在したと考えている。『新羅本紀』には倭人がたびたび侵攻してきたという記述があるようだし、広開土大王の碑にも399年から400年にかけて倭が新羅を征服したので高句麗が倭をやっつけて追い払ったとある。北九州各地に痕跡や伝説も残っているし、神功皇后もしくはそのモデルとなった人物がいなかったとする方が不自然に思える。 稲植が千本杉に祀ったのは400年代前半のこととなるだろうか。 天武天皇治世の667年に、神功皇后と誉田別尊(応神天皇)を祀る延奈八幡社(えなはちまんしゃ)を建てたという。それはのちに延喜八幡社と呼ばれるようになり、安産の神様として人々に信仰されたといわれる。 公式サイトに書かれている、末社の八幡社は古くから安産や子供の守り神として知られていて、源義家(八幡太郎)、為義(義家の孫)をはじめ、織田、豊臣、徳川からも崇敬を受けたという。 しかし、急にここで八幡太郎義家の名前が出てきて戸惑う。武士のヒーローであり武家の神様的な存在の八幡太郎と尾張との関わりがあったことは知らない。その流れを汲む源家ということだろうか。もし本当に八幡太郎が大切にしたというのなら、何か特別な関わりのある社だったということになる。
『北区の歴史』は、大別連を祀るという説があると書いている。 そうなると今度は物部氏が絡んできてますます混乱の度合いが深まる。 『先代旧事本紀』によると、物部大別(もののべのおおわけ)は仁徳天皇時代の人物とある。 北区には式内社の味鋺神社があり、物部氏の祖、ウマシマジを祀っている。味鋺、味美は尾張国における物部氏の本拠だったところなので、安井のあたりまで物部氏が関わってくる可能性はある。ただ、それ以上の情報がないので、この話は保留とする。
別小江神社の「わけおえ」については、庄内川と矢田川の合流点に近いから、流れが別れている場所という意味で名付けたのだろうというのが通説となっている。 千本杉というのが地名なのか杉がたくさん生えている森のことを指していたのか、どちらなのか分からないのだけど、それが矢田川の北にあったのか南にあったのかで少し違ってくる。かつての川の流れと今の流れはかなり違っているのだけど、庄内川と矢田川に挟まれた場所にあったとすれば、流れが別れる場所というのはその通りだと思うけど、矢田川の南岸にあったとすればその名称はしっくりこない。 庄内川の北岸、尾張国春日部郡に『延喜式』に載る乎江神社(おえじんじゃ)があり、それはすでになくなったとされ、現在は所在不明となっている。小牧市本庄の八所社や西区比良の大江神社(比良の六所神社に合祀)などいくつかの論社があるも、はっきりしたことは分かっていない。 別小江は、乎江神社から別れたという意味で名付けられたという説がある。現在は「オ」と読んでいるけど、かつては「ヲ」だった。ヲエ神社であり、ワケヲエ神社だった。「ウォ」と発音し、「オ」と「ヲ」は別の母音として明確に区別されていた。乎江神社は宇江神社、魚江神社という表記が見られる。 「乎」は「ヲ」、「コ」、「ゴ」などと読み、前置詞として使う場合は、何々においてという意味になる。江は海や川、水などを表す。
以上を踏まえた上で、間違いを恐れず私なりの推測をしてみる。 まず、別小江神社は平安期まで確かにあった。川の流れが別れる場所という意味か、乎江神社と関わりがある神社だっただろうか。 誰が創建して、どんな神を祀っていたのかはまったく分からない。知るための手がかりがないので知りようがない。 それとは別に、神功皇后伝説にまつわる社が千本杉にあったと思われる。それはのちに八幡社となり、安産の神として信仰されることになった。 新・別小江神社と旧・別小江神社とは別の神社だったのではないだろうか。旧・別小江神社が江戸時代には乎江神社とともに所在不明になっていたというのなら、それは信じていい気がする。 江戸時代に六所明神があったのは確かだ。その創建時期についてもよく分からない。 祀られている神がイザナギ、イザナミ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオ、ヒルコと、イザナギ一家大集合となっているのは、ある時期、このあたりで六所明神が流行ったことがあったからだ。名古屋北部の北区、東区にはたくさんの六所明神関係の神社がある。 浅野長勝(勝行)が神社の修繕をさせたという話と、織田信勝が移させたという話を両立させるためには、長勝が修繕させたのは六所明神、もしくはその前身となる神社で、勝信が移させたというのは千本杉にあった八幡社のことだった、ということであれば話は合う。 二つの神社の話が同じものとして語られたことで混乱を招いてしまったのではないか。 個人的な理解として、現在の新・別小江神社は旧・別小江神社ではない。そして、古い歴史を持つ八幡社と合体している、ということになる。 もちろん、完全に間違っているかもしれない。ただ、ひとつの可能性として思いつくままに書いてみた。詳しい人がいて、それは違うぞと教えていただけたらそれはそれで書いた意味があったということになる。私自身、もっと詳しく知りたいと思っている。
作成日 2017.2.26(最終更新日 2018.12.31)
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