片山神社

なんという空気感をたたえた神社だろう

片山神社

読み方 かたやま-じんじゃ
所在地 愛知県名古屋市東区芳野2丁目4-28 地図
創建年 伝・684年(飛鳥時代後期)または709年
旧社格・等級等 郷社・七等級・式内社
祭神 蔵王権現(ざおうごんげん)
安閑天皇(あんかんてんのう)
国狭槌命(くにさつちのみこと)
アクセス 名鉄瀬戸線「尼ヶ坂駅」から徒歩約4分
駐車場 あり(境内)
その他 例祭 10月11日
オススメ度 ***

 なんて不思議な空気を持った神社だろう。それがこの神社を初めて訪れたときの第一印象だった。
 街中から少し入っただけなのに昼なお暗く、外界からは隔絶された感がある。まるで山奥にある奥の院のようだ。一種独特の雰囲気をたたえていて、多くの神社を回ったけどここに似ている神社は他にはなかった。
 ここには何かいる。特殊な能力を持っているわけではなく、特別敏感なわけでもない私でもそう感じるくらいだから、よほどのことなんじゃないかと思う。

 現在、片山神社は『延喜式』神名帳(927年)の山田郡片山神社とされている。
 江戸時代は蔵王権現を祀る蔵王権現社だった。
 社伝では創祀を709年とし、一説では684年に役小角(えんのおづぬ)が創建したとも伝わる。
 684年説は、
天武天皇の命を受けて三河(岡崎)に瀧山寺(たきさんじ)を開く途中で、この地に立ち寄って蔵王権現を祀ったのだという。
 
飛鳥時代から奈良時代にかけて生きたとされる伝説の呪術師・役小角は、吉野の金峯山(きんぷさん)で修行をして金剛蔵王大権現と出会い、修験道の基礎を築いたとされる。
 瀧山寺の縁起でも役小角が開基ということになっていて、年代や話の辻褄は合うのだけど、だからといって片山神社を役小角が創建(創祀)したとは限らない。

『尾張志』(1844年)は、國狭槌尊を祀る蔵王社として鎮座の年月は不明とし、この神社が本当に式内社かどうかといったことを書いている。
 社家の森氏は、祖先が大和国吉野の蔵王権現社に出向いて勧請したのを自宅で祀っていたのが始まりというのだけど、だとすればそれは中世のことだから平安中期以前の式内社であるはずがないのだけど、蔵王権現を祀る以前から古い社があったという話もあり、式内かどうか決めかねると態度を明らかにしていない。近くに片山八幡神社もあってそちらも式内社を称しているから、どちらが本当か詳しい人が決めてくださいと結ぶ。

 津田正生は『尾張国神社考』の中で「諸説紛々して定めがたし」として、いくつかの説を紹介している。
『本国神名帳集説』(1707年)は東杉村の蔵王権現を式内の片山神社としているけれど、ある人が言うには七尾の天神ではないかとする。これは今の七尾神社のことだ。
 それに対して瀧川弘美は「蔵王の社人、片山の社號を拾ひて、式内神社とせるものは憎むべし」といっている。瀧川弘美は大曽根八幡こそが村の産土神だから、ここが式内の片山神社だとする。
 尾張藩二代藩主の光友が江戸高田の穴八幡を勧請してこの神社に祀ったことで八幡社となり、村人は産土神を天道社の社に移したといっている。
 津田正生は「後の好士なほ考へ訂為べし」として自説を述べていない。
 個人的には片山八幡社の可能性が高そうだとは思いつつ、根拠があるわけではない。

『愛知縣神社名鑑』は709年創祀説と683年役行者開基説を紹介しつつ、慶長19年(1614年)に徳川家が御供田灯明田を寄進したことや高麗犬や天文三年(1534年)の棟札を所蔵していることを書いている。
 片山神社と改称したのは明治5年というのだけど、瀧川弘美が蔵王社の社家が式内の片山の社号を拾って勝手に名乗っていると怒っていることからしても、江戸時代にはすでに式内の片山神社と称していたのだろう。

 江戸時代後期はまだ神仏習合している時代で、『尾張志』がいうように蔵王権現と同一視された国狭槌(クニサツチ)を祀っていたようだ。
 安閑天皇も蔵王権現と同一視されていたのだけど、祭神としたのは明治以降のことではないかと思う。明治の神仏分離令によって神社で蔵王権現を祀ることが禁じられたため、それまで蔵王権現を祀っていた神社は安閑天皇を祀るとしたところが多い。
 クニサツチ(国狭槌)は『日本書紀』の天地開びゃくのときに登場する神代七代のうちの一柱で、国土、国の土の神とされる。『古事記』の中では、大山津見神(オオヤマツミ)の子・国之狭土神(クニノサツチ)として登場する。
 名古屋で現在、クニサツチを祀っている神社は片山神社の他は新栄の八王子社くらいしかない。
 安閑天皇は継体天皇の長子で、母親は尾張連草香の娘の目子媛(めのこひめ)なので、尾張とはゆかりがある。
 可能性としては薄いだろうけど、安閑天皇を祀ったのが先で、蔵王権現が後ということもあるだろうか。
 安閑天皇と蔵王権現が同一視されるようになった理由はよく分からない。

 かつては鬱蒼とした森に囲まれた神社で、境内にはご神木とされる杉の大木があり、この森の中で天狗が暴れ回っていたという伝説がある。境内に残された大杉の切り株が天狗が腰掛けた木の名残なのだとか。
『尾張名所図会』(1844年)は境内にある汐見櫻は芳野から移したものだと書いている。実際、江戸時代前期には吉野から持ってきた桜の木が植えられ、桜名所となっていたようなのだけど、今はもう残っていない。
 更に時代をさかのぼれば、長久寺遺跡片山神社遺跡の調査で縄文時代以降この地に人が暮らしていたことが分かっている。ここは名古屋台地の北の縁で、すぐ北は入り海だった。
 2016年に長久寺遺跡(金城学院中学/地図)で行われた調査では、縄文時代中後期の集落跡や弥生時代の溝跡、古墳時代の円筒埴輪などが見つかっている。
 片山神社境内からも遠賀川式土器などが見つかっており、神社以前にこのあたりで神祀りが行われていた可能性は高い。
 そういった時代が積み重なった歴史の空気といったものが、私が初めて訪れたときに感じたものだったのかもしれない。
 その後何度か訪ねているのだけど、最初に感じた感覚は二度と蘇ることはなかった。初めて行ったとき、たまたま天狗が遊びに来ていたのかもしれないなどと真面目に思ったりもする。そんなことを思わせるのがこの神社で、式内社かどうかなんてことはたいして重要ではないのかもしれない。

 

作成日 2017.2.10(最終更新日 2019.9.9)

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