皇太神社(西中島)

皇太神社と名乗った時期と理由は?

西中島皇太神社

読み方 こうたい-じんじゃ(にしなかじま)
所在地 名古屋市中川区西中島1丁目1106番地 地図
創建年 1624-1643年(江戸時代前期)
社格等 村社・十四等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
 アクセス

・あおなみ線「中島駅」から徒歩約28分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 皇太神社は、伊勢の神宮系統の神社で、全国各地に何社かある。
 伊勢の神宮の正式名称はただの「神宮」なのだけど、内宮と外宮、摂社や末社など、関係125社の総称のことだ。
 そのうちの内宮の正式名は皇大神宮(こうたいじんぐう)で、外宮は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)という。
 皇太神社は内宮の皇大神宮から来ているということになる。
 神明社と皇太神社の違いは何かと訊かれると私は知らない。圧倒的に数が少ないことをみても、皇太神社は神明社と比べてやや特別な存在なのかとも思う。
 名古屋市内に皇太神社はここ中川区西中島のものしかない。
 ただ、ここから900メートルほど東にある東中島の春日神社地図)はかつて天照皇太神社と称していたというから、両社は無関係ではなさそうだ。
 このあたり一帯、平安時代末期に伊勢の神宮の荘園があったところなので、そこから来ているとも考えられる。
 ただし、創建は江戸時代前期というから、その時代までこの土地と伊勢の神宮がつながっていたかどうかはよく分からない。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は江戸時代初期の寛永年間(1624-1643)伊勢より勧請し万治二年(1659)現在地に社地を移した。明治5年7月、村社に列格し、昭和55年本殿造営遷座祭を斎行する」

 現在地は1631年から1634年にかけて干拓によって開発された中島新田に当たる。創建年が1624-1643年というのが微妙なところで、新田開発の前に別の場所に建てられたのか、新田開発が終わった中島新田に建てられて中島新田内の今の場所に移したのか、そのあたりは分からない。
 中島新田の開発を行った鬼頭景義が関わっているようにも思うけど、棟札などは残っていないようだ。
 中島新町にある八劔社は、棟札が残っていて、中島新田完成の1634年に鬼頭景義ら6名が勧請創建したことが分かっている。
 東中島にある八劔社については棟札は残っていないものの、1628年に創建されて、1659年に東中島に移されたとしている。
 元・天照皇大神社だった東中島(昭和橋通)の春日神社は、中島新田開発が始まった1631年に鬼頭景義が創建したとされる。
 これほど短期間に4社もの神社を狭い地区に建てるだろうかという疑問は沸くものの、これらの神社はひとまとめにして考える必要がありそうだ。
 すべてに鬼頭景義が関わっているとするのはやや無理があるかもしれない。

『尾張志』の中島新田の項を見るとこうなっている。
「神明ノ社
 神明ノ社 畑田といふ地にあり末社に春日ノ社八幡ノ社あり
 八劔ノ社 二所 同所にあり」 
 畑田の神明社が東中島の春日神社のことで、もうひとつの神明社がこの西中島の皇太神社ということになるだろうか。
 二社の八劔社は、中島新町と東中島の八劔社でいいと思う。
『寛文村々覚書』(1670年頃成立)に中島新田の項がない理由はよく分からない。

 西中島の皇太神社の正式名は皇「太」神社で、神社入り口の社号標もそうなっている。
 伊勢の内宮は皇大神宮で、点のない大だ。
 皇太神社の拝殿に架かっている額は「皇大神社」で点がなく、境内奥に昔のものと思われる社号標があり、そこには「皇大神宮」と彫られている。
 そのあたりの区別や変遷についてはどうなっているのだろう。

 拝殿は東中島の春日神社のものとよく似ている。同じ設計者や会社が建てただろうか。
 一般的な平入りの神明造の入り口扉に屋根がついた形式で、他の神明社では見かけない気がする。
 千木は内宮と同じ内削ぎになっている。春日神社は外削ぎだった。
 ただ、戦後に建て直された社殿はそのあたりは適当だったりするので、あまり当てにはならない。

 中島新田以外に皇太神社があったのかどうかは知らない。何故、この地区だけ二社が残ったのかはちょっと気になるところだ。
 神明社ではなく皇太神社としたことに何か特別な理由があったのか。
 江戸時代後期の『尾張志』にある神明社が皇太神社のことだとすれば、皇太神社と社名を変えたのは明治以降ということになる。だとすれば、特別な意味はないのかもしれない。
 イメージの問題ではあるけど、神明社より皇太神社と名乗った方がちょっと高尚な感じがする。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

皇太神社と神明社に決定的な違いはあるのか?

HOME 中川区

スポンサーリンク
Scroll Up