不思議な姿をした神社だ。こんな神社は見たことがない。 交通量の多い交差点近くにありながら周囲をほとんど囲っていないため、神社が持っているはずの気といったものがまるで保たれていない。境内を風が吹き抜けている。この上なく開けっぴろげで、晒され感がすごい。うちは隠し立てするものは一切ありませんからと主張するかのようだ。 しかしながらというかだからというべきか、社殿はびっちりふさいでいて外からは一切うかがい知れないようになっている。境内とは対照的に人を寄せ付けない。 全面板張りというのか変わった建築で、ほとんど隙間といったものがない。拝殿と本殿は連結されており、連結部も完全にふさがっている。 これでは中で神様は息苦しいんじゃないかと思った。風が通らないので、冬は暖かそうだけど夏は暑いだろう。中に入っている神様の数も多い。 いろいろ神社を見てきたけど、斬新さという点では他に類を見ないオリジナリティがある。 新しい神社かといえばそうではなく、棟札や江戸時代の書からも江戸時代以前にはすでにあったことは間違いない。
地形的にいうと、庄内川の河口に近い右岸に位置しており、かつては低湿地帯だった。 ただ、平安時代初期には開発が始まったというから歴史は古い。11世紀末には富田荘(とみたのしょう)が成立して、近衛家の荘園になった(一部は綾小路家)。 鎌倉時代後期の1327年の地図には長塚村の集落に八幡社は描かれていない。創建は室町時代以降ということになるだろうか。 『尾張国地名考』の中で津田正生は、「長須賀村 長き砂処(すか)の處(ところ)なり」と書いている。 庄内川が運んできた土砂によってできた土地という意味だろう。
変わっているもうひとつの点は祭神の多さと顔ぶれだ。 八幡社といいながら関係のない祭神が集められている。もともと八幡社ではなかったのか、途中で増えたのか。 誉田別尊(応神天皇)と息長足姫命(神功皇后)、大鷦鷯命(仁徳天皇)は八幡社関係の神だけど、日本武尊(ヤマトタケル)と足仲彦命(仲哀天皇)親子はどこから来ているのだろう。しかも、日本武尊が一番先頭に来ている。熱田神宮関係なのか別のところなのか。 大名持命(大国主)と事代主命のセットは出雲の神で、名古屋ではあまり祀られていない。熱田神宮(web)の境内摂社・上知我麻神社(かみちかまじんじゃ/web)の末社で祀られてはいる。 神社の由緒書きに「竹内大臣」とあって、誰だ、竹内大臣って、と思ったら、武内宿禰(たけうちのすくね)のことだった。これもどういう経緯で祀られることになったのか分からない。 一番不思議なのは、この中に磐長姫命(イワナガヒメ)が入っていることだ。大山祇神(オオヤマツミ )の娘で木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ )の姉に当たる。 天孫の 瓊々杵尊(ニニギ)に妹のコノハナサクヤヒメと一緒に嫁ぐことになるも、美しい妹と違って醜かったためニニギに突き返されてしまう。イワナガ(磐長)は長寿の象徴なのに、それを拒否した天孫族は寿命が短くなるだろうと父親のオオヤマツミは怒った。 その後、イワナガヒメがどうなったのかは描かれていない。 全国の浅間神社でコノハナサクヤヒメとセットで祀られることはあっても単独で祀っているところは少ない。静岡県松崎町の雲見浅間神社(web)や、静岡県伊東市の浅間神社(web)、岐阜県岐阜市の伊豆神社(web)などだ。どうやら伊豆とゆかりが深いらしい。 名古屋でイワナガヒメを祀っている神社はここしかない。
オマケの不思議として、拝殿横に斎宮社と秋葉社の社号標があるのに社のたぐいがまったくないというのもある。 『愛知縣神社名鑑』と境内の由緒書きの両方を読まないと意味が分からず戸惑うことになる。 まず昭和29年(1954年)に長須賀の字屋敷737番地にあった秋葉社と、字屋敷754番地の斎宮社を合併して飛地境内社とした。 その後、長須賀の区画整理に伴い、飛地境内社だった二社を八幡社の本社に合祀したのが平成12年(2000年)のことだった。 社もなく社号標だけ建っているからどういうことだと思った。 斎宮社と秋葉社については江戸時代の書には載っていない。 今昔マップの1968-1973年を見ると、八幡社の東北に鳥居マークが描かれている。それ以前の地図には描かれていないのだけど、ここが斎宮社の旧地だったかもしれない。今は住宅が建ち並んでいる。
八幡社はいつ誰によって建てられたかはまったく分からない。 『寛文村々覚書』(1670年頃)に前々除とあるので、1608年の備前検地以前にあったことははっきりしている。 助光村の忠太夫の持分となっている。 『尾張徇行記』(1822年)は【助光村祠官二村式部書上帳ニ】として、こう書いている。 「八幡宮境内二畝村除 此社勧請ノ草創ハ知レズ、再建ハ正保三戌年也」 正保3年は1646年だ。 『中川区の歴史』によると、文化9年(1812年)に名古屋上畠町の山川猪十郎という人物が奉納した日本刀が伝わっているという。
八幡社の少し北にある真言宗の延命寺は行基作と伝わる木仏地蔵菩薩を本尊としており、廃寺になった弥勒寺の本尊だった弥勒菩薩像も所蔵している。 鎌倉時代末の富田荘絵図に長須賀の集落が描かれているということは、その頃には神社も寺もあったのではないかと思う。
ついでに少し気になったことを書いておくと、八幡社がある旧住所は才ヶ前で、その後、オケ前になった。 どういう由来の地名なのかは調べがつかなかった。
富田地区には現在も多くの神楽(カグラ)が現存している。 熱田区、中川区、中村区、港区などの名古屋南西部の新田地区に、かつては140基以上のカグラがあったといわれている。 古くは獅子舞の頭の部分を祠に安置して移動させるものだったのが、のちに獅子屋形、獅子神楽屋形と呼ばれるようになり、いつしかカグラ(神楽)という呼び方が定着した。 第二次大戦の空襲と伊勢湾台風で多くが失われるも、現在でも70基以上のカグラが保存されているという。ただし、祭礼などで使われることは稀だそうだ。 長須賀に保存されているカグラは、牛若丸と弁慶や源平合戦の彫り物が施されたものだという。これも平成12年(2000年)の八幡社移転の式典で出されて以降、倉庫に眠ったままになっているらしい。
いくつかの不思議があった長須賀八幡社だけど、印象に残るということはいいことだ。そういう神社との出会いを私も楽しみにしている。
作成日 2017.6.14(最終更新日 2019.5.28)
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