引山中集会所の敷地内にある小さな社。
三社並んでいて、二社は色落ちしているものの赤く塗られていたのが分かるので、二社とも天王社かもしれない。
社の前の石灯籠に秋葉山とあるから、一社は秋葉社だろう。
これとは別に金比羅神社と彫られた石碑があり、裏に大正九年三月とある。
境内の古びた石柱を見ると、明治三十五壬寅十一月と刻まれている。
集会所隣の西側には石仏などが集められている。
観音像と思われるものに、文政十三寅年 壹番とある。
文政13年は1830年だから江戸時代後期だ。
庚申塔には十一月七日とだけある。
あとの二体は地蔵像と観音像だろうか。
これだけ年代がバラバラで様々な社や石碑や石仏があるということは、村に点在していたこれらをある時期この場所に集めたということだろう。明治時代かもしれないし、昭和の戦後かもしれない。
引山(ひきやま)の地名は短山(ひきやま)から来ているとされる。
名東区は近年の宅地開発で山をごっそり削っているので元の地形があまり残っていないのだけど、南へ行くほど土地は高くなっており、そのあたりに短山の名残がある。
『尾張名所図会』(1844年)に「猪子石(いのこいし) 蓬莱谷(よもぎだに)」と題した絵がある。
金蓮川(かなれがわ)を挟んで蓬莱谷の方に、猪子石の地名の由来となったとされる牝石(現・大石神社)が、反対側に牡石(現・猪子石神社)が描かれている。
蓬莱谷には観音、八劔とある。
『尾張志』(1844年)や『寛文村々覚書』(1670年頃)などによると江戸期の猪子石村には神明社、八劔社、山神社などがあったようで、八劔社や山神社などは猪子石の神明社に移され、戦後に本社に合祀されたため現存していない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)の地図を見ると、猪子石村の集落の中心は山の手1丁目から3丁目あたりにあったことが分かる。南の短山の裾野に当たる場所だ。
もうひとつの中心地が香流川を挟んだ北の引山の辺りだ。
香流川はかつてはかなり蛇行しており、月心寺や神明社のすぐ南あたりを流れていた。年配の人の話では、子供の頃は月心寺の境内から下を流れる香流川に飛び込んで遊んだのだとか。
引山の西にある集落は猪子石原村で、こちらは春日井郡に属していた。
猪子石原の氏神社は和爾良神社で、かつては天神と呼ばれていた。今も天神下などの地名が残る。
ちなみに、猪子石の正式な読み方は「いのこいし」らしいのだけど、地元の人間は「いのこし」と言っている。猪子石原もやはり「いのこいしはら」が正式のようだ。
引山2丁目の天王社・秋葉社は、猪子石村の中の引山地区にあった社や石仏などを集めたものだろうか。こういった小さな社などは江戸期の書に書かれていないので調べようがなくてよく分からない。近所のお年寄りに訊けば昔のことは教えてもらえるかもしれないけど、それでもせいぜい戦後のことだ。
名東区の郷土資料なども当たってみたものの、情報は得られなかった。今のうちに聞き込み調査をして記録として残しておかないと、このまま完全に分からなくなってしまいそうだ。
作成日 2018.6.2(最終更新日 2019.2.1)
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