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秋葉宮(白壁)

志水長栄寺の忘れ形見か街道の守り神か

白壁秋葉宮

読み方 あきば-ぐう(しらかべ)
所在地 名古屋市東区白壁3丁目5 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明
アクセス 名鉄瀬戸線「清水駅」から徒歩約3分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 名古屋城の東、旧・木曾街道沿いにある小さな秋葉社。額には秋葉宮とある。
 この道は上街道(うわかいどう)とも呼ばれ、江戸時代に名古屋城下と中山道を結ぶ脇往還だった。
 尾張藩が参勤交代で中山道を使うときのために整備した道で、東大手門を出て少し東に進んだ後、清水で左に曲がって北上し、矢田川、庄内川を渡って味美、小牧、犬山を通って中山道の伏見宿(岐阜県可児郡御嵩町)に至る十里八町(約40キロ)の道のりだった。

 かつて名古屋城下には4つの長栄寺があり、秋葉宮があるのは志水長栄寺があった場所に当たる。もしかするとこのお堂はその頃の名残かもしれない。志水長栄寺(真言宗)は廃寺になって現存していない。
 他の3つの長栄寺のうち、南寺町長栄寺(曹洞宗)が中区橘1丁目(地図)(清須越しで移ってきた寺)に、柳原長栄寺(天台宗)が北区柳原2丁目(地図)に現存し、宮出町長栄寺(日蓮宗)は廃寺となっている。

 志水長栄寺について『尾張志』(1844年)はこう書いている。
「志水町坂下の西側にありて高松山と号し長久寺の末寺也町方府志に寛文三卯年開基也と見張州志□にはもと観音坊といひしを延宝九年愛智郡諸輪村洞末山長栄寺の号を移して今の名に改し由記せり」
「本堂 本尊は十一面観音の銅像也 辯才天社 本堂のうしろ池のなかにあり」

 寛文三年は江戸時代前期の1663年で、長久寺というのは白壁3丁目(地図)に現存する真言宗智山派の寺だ。尾張徳川家の祈願寺で、真言宗の学問所もあった。
 もともとは清洲藩主だった松平忠吉(家康の四男)が清須に創建したもので、義直(家康の九男)が名古屋城主として名古屋に入った1610年に名古屋城下に移した。
 長栄寺がいつどういういきさつで廃寺になったのかは調べがつかなかった。この秋葉宮が長栄寺と関係があるのかないのかもはっきりしないのだけど、木曾街道沿いで民家が密集していた場所ということを考えれば秋葉社のひとつやふたつあってもおかしくはない。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、木曾街道沿いにびっしり民家が建ち並んでいるのが分かる。ただ、この頃はまだ道沿いの東西に田んぼが広がっていて、それにちょっと驚く。清水町の北に杉村があって、そこはもう名古屋城下とは呼べない。
 1920年(大正9年)になると、街道沿いから外れた清水や柳原にも多くの家が建ち、田んぼが少なくなっている。
 1932年(昭和7年)には、細かく区割りされて家が隙間なく建ち並び、田んぼはすっかり姿を消してしまった。この頃までに今の町割りがほぼ完成している。
 ただし、このあたりは空襲の被害が大きかった地区で、終戦から2年後の1947年の地図でも多くの場所が空白になっている。
 1950年代の地図がないのでその頃の状況がよく分からないのだけど、1960年代には空襲があったことが分からないくらい町並みは超回復している。

 清水口の北から矢田川までの旧・木曾街道(上街道)はわりと往事の面影が残っていて寺社も多く、歩くと楽しい道なのでおすすめしたい。

 

作成日 2018.8.30(最終更新日 2019.2.22)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

旧木曾街道沿いに残る白壁秋葉宮

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