黒體龍王大神社

今はなき中島の主を祀る

中島黒體龍王大神

読み方 こくたいりゅうおう-おおかみ-しゃ
所在地 名古屋市西区枇杷島2丁目25 地図
創建年 慶安年間(1648-1652年)
社格等  不明
祭神 黒體龍王大神(こくたいりゅうおうおおかみ)
アクセス

・名鉄名古屋本線「東枇杷島駅」から徒歩約7分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 庄内川の堤防下、木々に囲まれて昼も薄暗く、ちょっとただ者ではない空気感を放っている。
 名前を黒體龍王大神社というのだけど、読み方がちょっと分からない。
 祭神が「こくたいりゅうおうおおかみ」だから、「こくたいりゅうおうおおかみ-しゃ」にしておいたけど、「おお-じんじゃ」かもしれない。
 黒龍神社が現在の社名という話もある(未確認)。

 この神社はもともと、庄内川の中州にあった。中洲は上流から運ばれた土砂などが堆積してできる川の中の島のことだ。当時そこは中島と呼ばれていた。
 この場所は、北の清洲と南の名古屋を結ぶ美濃路に当たり、江戸時代以前は舟で渡していた。
 ここに初めて枇杷島橋を架けたのは尾張藩初代藩主の義直で、江戸時代前期の1622年のことだった。
 中島は北寄りにあったため、西側は小橋、東側は大橋と呼ばれた。
『尾張名所図会』にも絵図が描かれており、「國中第一の大橋にして」、「結構の善美(せんび)、人の目を驚かせり」と書いている。
 西枇杷島側に尾張一の青果物問屋があり、人の往来の多かった美濃路ということもあって、中島には茶屋などもできて、大いに賑わったようだ。
 同時に農地としても活用しようということになり開発を始めたところ、ある人の夢枕に龍王が現れ、自分がこの地を守ると告げたため、村人たちは龍を祀る神社を建てることにした。それがこの黒體龍王大神社で、慶安年間(1648-1652年)のことという。

 この神社には龍ならぬ大蛇にまつわるもうひとつのエピソードが伝わっている。
 江戸時代中後期の1789年、覚明行者(かくめいぎょうじゃ)がこの地にやってきて庄内川を渡ろうとしたところ、大雨で橋が流されて渡れず困っていると、金色の大蛇が現れ向こう岸まで運んでくれた、というものだ。
 そのお礼として後に中島にあった黒體龍王大神社を改修したという。
 覚明行者は春日井の牛山村の生まれで(1718年)、若い頃は魚の行商人をしていたというから、美濃路のこの道はよく通っていただろう。
 20代で出家し、四国の霊場を回って修業中に法力を得て、覚明という名を授かった。
 木曾の御嶽山を開けという神のお告げを受けて、初めて御嶽山に登ったが1785年というから、70歳に近かった。
 まず恵那山を開き、続いて江戸の普寛行者とともに御嶽山を開いた。
 覚明、普寛系譜の行者たちが続き、御嶽信仰は各地に伝わり広がっていくことになる。
 しかし、枇杷島橋が江戸時代に流されたというのが事実かどうか。小橋は明治時代に流されて石橋に付け替えられたという記録があるものの、江戸期に枇杷島橋が流されたという記録は見つけられなかった。
 金色の大蛇云々という話はどこから出たものなのだろう。

 明治以降、中島には西春日井郡役所、枇杷島役場、公会堂をはじめ十数軒の民家や寺社が立ち並ぶようになった。これもうちょっとした町だ。
「仲仁楼」という料亭もあり、庄内川に舟を浮かべて客たちは楽しんだそうだ。
 そんな中島の状況が一変したのは戦後のことだった。
 しばしば川の増水で被害を受けていただけでなく、庄内川の治水面でも影響が大きいということで、ついに中島は撤去されることが決まった。
 昭和25年に工事が始まり、昭和33年に中島は完全に姿を消すことになった。
 今架かっている枇杷島橋は昭和31年に架けられたものだ。旧枇杷島大橋と小橋は今の橋より少し北側にあった。
 神社が現在地に移されたのもこのときで、昭和28年のことだ。

 老朽化が進み、やや荒れた印象の境内を奥へ進むと、ちょっと異様な空気に満たされている感じがある。
 人によっては居心地がいいと感じるだろうし、怖いと感じる人もいるかもしれない。
 雰囲気としては御嶽社に近い。覚明行者以降、御嶽講の人たちが深く関わっているせいだろう。
 拝殿前に龍の像があったり、蛇石があったり、大黒像や観音像があったりと、いろいろ習合している。
 稲荷社は船玉稲荷というようだ。名前の由来は分からない。
 白頭金體龍王の社が覚明行者を助けた金色の大蛇にまつわるものらしい。
 普通の神社にあきたりない人にオススメの神社といえるだろうか。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

ちょっとディープな世界観の黒體龍王大神社

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