今の大当郎はかつての大蟷螂村だったところで、村域がおおよそそのまま町名になっているのではないかと思う。大当郎と大蟷螂町のふたつの地名が今も残る。
この白山社は大蟷螂村の氏神だった神社だ。境内はかなり削られてしまっているものの、鳥居から社殿までの距離を考えると、江戸時代はけっこう大きな神社だったことが伺える。位置的にもちょうと村の中心だったのではないだろうか。
『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。明治5年、村社に列格した」と書いている。
境内に由緒記の碑があり、そこには「寛文五年(1665年) 勧請」とある。
しかし、『寛文村々覚書』の大蟷螂村の項を見るとこうある。
「白山壱社 地内三畝歩 前々除 中郷村祢宜 孫太夫持分」
『寛文村々覚書』は1655-1658年にかけて行われた調査を元に1670年頃完成したとされる。
「前々除」は1608年に行われた備前検地のときすでに除地(年貢の免除地)とされていたということなので、1665年創建はちょっと考えられない。少なくとも創建は江戸時代以前だろう。
『尾張徇行記』も見ておくと、
「白山社内三畝歩前々除 府志ニモ出タリ 祠官高羽氏書上ニ、境内三畝御除地、草創ハ不知、再建は寛文八申年也」
となっている。
寛文八年は1668年で、神社境内の由緒記にもこの年に改築したと記されている。
ちょっと気になったのは境内の由緒記が「寛文五年 勧請」となっている点だ。「創建」ではなく「勧請」としたということは、何か含みがあるのか。
白山信仰の始まりは奈良時代、もしくはそれ以前とされるも、修験の色合いが濃く、各地に白山社が建てられるようになるのはもっと後のことだ。
白山信仰が全国に広がるのは、室町時代前期の南北朝時代の頃とされる。
戦国時代になると武将が自身の信仰の対象としたり、城の守り神として白山社を建てるようになった。戦国武将の白山信仰というものがどういうものだったのかがよく分からないのだけど、名古屋に残っている白山社はこの時代に建てられたものが多いのではないかと思う。
おそらく大蟷螂村の白山社もそうだろう。
戦国時代後期になると、戦乱によって白山社の多くは荒廃してしまう。城の守り神だったものは廃城とともに捨て置かれる格好になったものも少なくない。
江戸時代になって加賀の白山社を建て直したのは、前田家だった。尾張における白山社の再建もそのことと無関係ではなかったかもしれない。特に中川区は前田利家を生んだ地ということで白山社を大切にしようという気運が他の地区より強かったんじゃないか。
荒れていた白山社を再建したのが1665年だったという可能性はありそうだ。
ただ、その年に再建して3年後の1668年にすぐに改築するだろうかという疑問は残る。実際のところは分からない。
拝殿はかわいらしくピンクホワイトに塗られている。中川区に限らないのかもしれないけど、中川区でピンク拝殿をよく見る印象がある。何故ピンクにするのか。ククリヒメに合わせてそうしているのか、神社の宮司さんの趣味なのか、氏子の希望だったのか。
境内由緒記の最後の改築が昭和52年(1977年)になっているから、現在の状態はこのときからだろうか。この頃ピンクが流行っていたかどうかは覚えていない。1977年といえば、ピンクレディーが「渚のシンドバッド」、「ウォンテッド」、「UFO」を発表して大ブームを起こした年ではある。そのことと白山社のピンク拝殿は、たぶん無関係だろう。
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