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稲荷(半僧坊新福寺)

半僧坊方広寺別院の新福寺にある稲荷

半僧坊新福寺稲荷

読み方 いなり(はんぞうぼう-しんぷくじ)
所在地 名古屋市昭和区広路町字松風園68 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明
アクセス 地下鉄名城線/鶴舞線「八事駅」から徒歩約16分
駐車場 あり(新福寺)
その他  
オススメ度

 半僧坊新福寺の中にある稲荷。
 この稲荷に関する情報がまったくないので詳細は不明。
 新福寺は明治18年(1885年)に名古屋城下の南大津町(中区栄3丁目)に建立され、明治43年(1910年)に今の所に移された。
 南大津町時代にすでにこの稲荷があったのか、今の広路町に移されてからなのかは分からない。独立した稲荷社としてあったものでなければ、明治18年よりさかのぼることはないだろう。

 このお寺は、新福寺というよりも半僧坊として通っている。半僧坊とは何かというと少し説明が必要だ。
 静岡県浜松市の浜名湖からだいぶ北へ行った北区引佐町奥山に深奥山方広寺(じんのうざんほうこうじ / web)という寺がある。臨済宗方広寺派の大本山とされる禅寺だ。
 室町時代前期の1371年、その地を治めていた豪族の奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)が無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)を招いて開いた。
 無文元選禅師は後醍醐天皇の皇子で、後醍醐天皇が亡くなった翌年に18歳で出家して京都の建仁寺(web)などで修業を積んだ。
 その後、元(中国)に渡り、大覚妙智寺の古梅正友(こばいしょうゆう)禅師を訪ねて修業を重ねたとされる。
 日本に帰国する途中、東シナ海で台風に遭って沈没しそうな中、観音経を唱えていると船にひとりの異人が現れ、禅師が日本で教えを広めるために自分が救おうと言い、無事に嵐の中を博多の港まで送り届けると姿を消してしまった。
 無文元選禅師が方広寺を建てたとき、その異人が再び現れ、自分を弟子にしてほしいと申し出た。
 方広寺の名前は、禅師が訪れたことのある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから名づけたとされる。
 異人の弟子は禅師の身の回りの世話をよく行っていたことから飯僧と呼ばれ、後に半僧坊になったという説と、半分俗人で半分僧だからお前は半僧坊だと禅師が言ったからという説がある。
 禅師が亡くなると、半僧坊はこれからは自分がこの山と寺を守るといって姿を消してしまったため、方広寺では半僧坊を鎮守として祀るようになったのだという。
 この異人は観音の化身だったという話もある。
 名古屋の新福寺は、この方広寺の名古屋別院に当たるということで、ここでも半僧坊を名乗っているというわけだ。
 新福寺の本尊は阿弥陀如来なのだけど、半僧坊をどういう形で祀っているのかは分からない。本堂の中で一緒に祀っているのだろうけど、半僧坊像といったものはあるのだろうか。
 稲荷を鎮守として祀るようになった経緯もやはりよく分からない。江戸時代ならともかく、明治になってからの建立で、禅寺で稲荷を祀るという例は他にもよくあることなんだろうか。

 境内には宮本武蔵ゆかりの新免政名供養碑(しんめんまさなくようひ)がある。
 尾張藩の円明流の門下が宮本武蔵の百四十九年忌供養に建てたもので、もともと新豊寺(昭和区南山町)にあったのを新豊寺が廃寺になったため、ここに移された。
 なので、この寺が宮本武蔵と直接関わりがあるというわけではない。
 ただ、宮本武蔵が名古屋を訪れていることは確かで、南区笠寺の東光院にしばらく滞在していたと伝わっている。そのあたりのことは笠寺天満宮のページに書いた。
 江戸に出て将軍家で兵法指南役として仕官しようとするも将軍家には柳生宗矩がすでにいたため叶わず、尾張にやってきて藩主義直の前で御前試合をしたものの、尾張藩にもすでに柳生兵庫助(柳生利厳)がいて仕官はならなかった。
 そのときに尾張藩士と交流して円明流を伝えたとされる。
 宮本武蔵というのは俗名で、諱(いみな/本名のこと)は玄信(はるのぶ)という。名字は宮本の他に新免も名乗っていた。『五輪書』の中では新免武蔵守・藤原玄信と称している。自身は藤原氏の流れを汲むという意識があったようだ。
 生まれは播磨(兵庫県高砂市米田町)または美作国宮本村(岡山県美作市大原町)とされ、はっきりしない。
 関ヶ原の戦いに参加していたという話はわりとよく知られていることだけど、父親の新免無二が豊前国の黒田家に仕官していた関係で、黒田如水に従って東軍として九州で戦った可能性が高いとされる。
 あまり知られていないことだけど、大坂の陣や島原の乱にも参加している。
 最後は熊本で死去したと伝わる。享年62。

 かつて飯田街道を電車が走っていた頃、「半僧坊」停留所があった。飯田街道にある半僧坊交差点に名残をとどめている。
 半僧坊があるのは八事の交差点から西に向かって登っていった道沿いで、お寺へ行く人は半僧坊停留所から南へ向かって坂道を登っていったことになる。
 愛知馬車鉄道の千種 – 八事間の鉄道が通ったのが明治40年(1907年)なので、そのときはまだ半僧坊はここに移る前だ。
 明治45年(1912)には路面電車の尾張電気軌道と名を改め、八事電車と呼ばれた。その後、新三河鉄道の経営となり、昭和12年(1937年)に名古屋市に買収されて名古屋市電となった。
 昭和49年(1974年)、最後は大久手 – 安田車庫前間が廃止となり、姿を消した。
 今昔マップでそのあたりの変遷を確認できる。
 新福寺が移ってきた明治43年頃のこのあたりは丘陵地で家が数軒ある程度だった。
 区画整理されて家が増えるのは昭和に入ってからで、戦前までにはかなり発展を遂げている。
 1960年代以降、住宅地となって一気に家が増えた。

 寺の中にある小さな稲荷に参拝する人は少ないだろうけど、宮本武蔵ゆかりの地巡りのついででも参ってあげると喜ばれるかもしれない。

 

作成日 2018.12.2(最終更新日 2019.3.21)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

半僧坊新福寺の鎮守の稲荷

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