江戸時代の金屋坊村(かなやぼうむら)だったところで、金屋(かなや)の地名が残った。 地名の由来は、このあたりに鋳物師が住んでいたからといわれている。 鋳物師(いもじ/いものし)というのは鋳造(ちゅうぞう)の技術者たちのことで、鉄や銅を鋳造して武具や農具、鍋釜、寺の仏像や鐘などを作っていた。 鍛造(たんぞう)は金属を叩いて成型するのに対して、鋳造は溶かした金属を型に流し込んで形を作る加工法をいう。叩いて鍛える方が丈夫なものを作れる一方、鋳造は大量生産が可能という利点があった。鋳造は弥生時代後期には始まったといわれている。 金屋坊の坊は出郷や出住宅といった意味の言葉で、工房とは別にこのあたりに住居があったということではないかと考えられる。 守山区は古墳の密集地帯であり、縄文後期の牛牧遺跡なども見つかっていることから早くから人が暮らす土地だったことが分かっている。金属加工の集団もいたに違いない。 金屋あたりにそういった集団がいつ頃から住み始めたのかは分からない。千種には鍋屋上野村があり、名古屋城築城に伴う清洲越しで移ってきた鋳物師がいたことが地名の由来とされる。その集団と何らかの関わりがあったかもしれない。 小幡長谷村勝軍地蔵堂の鰐口に金屋三郎二郎家則という名が刻まれているというのもひとつの証で、鍋屋上野村の加藤忠右ヱ門や、水野太郎左衛門といった名前も残っている。 『尾張徇行記』は、「此村ハ元鋳物師ノ出タル所ナル故 金屋坊ト唱フト也」と書いている。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明暦四戊戌年(1658)10月12日と伝える。明治5年7月、村社に列格し、大正2年2月14日許可をうけ字宮廻間42番地鎮座の源太夫社と字影道412番地鎮座無格社山神社を同月21日当社に合祀した。昭和40年4月4日、本殿、弊殿、拝殿を造営する」
江戸期の書の金屋坊村の項はそれぞれこうなっている。
『寛文村々覚書』(1672年頃) 「社三ヶ所 内 神明 文殊 山神 社内壱反壱畝拾弐歩 永符之内」
『尾張徇行記』(1822年) 「社三ヶ所、神明文殊山神界内一反一畝十二歩、永符ノ内ト覚書ニアリ」
『尾張志』(1844年) 「神明社 金屋坊村にあり熊野白山を配享せり 源太夫社 山神ノ社 同村にあり」
江戸時代前期の時点で、神明、山神、文殊の3社があり、いつからか神明に白山と熊野を一緒に祀るようになり、文殊は源太夫社と名を変えたようだ。 源太夫社というのは熱田神宮(web)にある上知我麻神社のことで、かつては東海道と美濃路の追分にあった。智恵の文殊様とも呼ばれていたことから文殊が源太夫社になったのだろう。当初は文殊菩薩を祀っていたかもしれない。 神社由緒書きによると、江戸時代初期に伊勢の神宮(web)からアマテラスを勧請して創建し、元禄16年(1703年)に宮廻間に道祖神として建てられた猿田彦を明治11年(1878年)に境内社とし、大正2年(1913年)に村内の影道にあった山神社と宮廻間の源太夫社を合祀したとある。 境内社の津島社と御嶽社は戦後の昭和27年(1952年)に建てたものという。
神社由緒のいう1658年創建が正しいのかどうか、少し引っかかりを感じる。『寛文村々覚書』は1655年から1658年頃行われた調査を元に1670年頃にまとめられたとされているので、年代的にぎりぎりだからだ。 除地でもなく年貢地でもない「永符之内」の意味が分からない。 金屋坊村が成立したのが名古屋城築城以前なのか以降なのかによっても違ってくる。 村名の由来が鋳物師がいたことによるものであるならば、何故、金山彦を祀らなかったのか。このあたりに金山社や南宮社はない。 今昔マップの明治中期(1888-1898年)を見ると、小さな集落だったことが伺える。神社は集落内の西の端にあったようだ。 村の周辺は田畑とところどころ空白地帯があるから、そこは荒れ地か林だっただろうか。 『尾張徇行記』にはこうある。 「此村ハ、小邑ニテ戸口少ク、貧村なる故ニ、農業ヲ以テ生産モナリカタク、漸々ニ細民共僮僕ナトニモ出、イヨイヨ匱乏ニヨリ、村民土著スルヤウニナレリ、一村立ノ所ニテ、竹木ハ追々ニ伐スカシ、半バ荒廃ノ様眼前ニミエタリ」 農業だけでは立ちゆかず、村はなかば荒廃していると書いている。
現在の金屋はすっかり住宅地になり、神明社はきれいに整えられていて気持ちがいい。 立派な体格をした白猫が社を守るように座ってこちらを見ていた。
作成日 2018.5.15(最終更新日 2021.4.21)
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