品陀別命(応神天皇)を祀る八幡社だけど、ここの本体は天王社に思える。 境内由緒書きには天王社の祭神を牛頭天王(ごずてんのう)としている。 祇園精舎の守護神で、神仏習合時代に天王社で祀られていたのは牛頭天王だった。スサノオと同一視(本地)する考え方もあったようだけど、中世における津島天王社(津島神社/web)、祇園社(八坂神社/web)の神は牛頭天王だった。 明治の神仏分離令でスサノオに変えられたことをよしとしなかった神社は少なくなかっただろうけど、今でも祭神を牛頭天王としている神社はあまりない。 一応、カッコして素戔嗚尊としているし、神社本庁への届け出は須佐之男命としているけど、それは表向きだけのような気がする。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「長寛年間(1163)この地に寄息した源為朝の子孫は平氏の目を逃れて、大矢、鬼頭の姓を冠し住みつき武神を祀った。この地域では最も古き社と伝える。配祀の須佐之男命は祭神品陀別命の霊夢により六月望の日に神城に入御されたと伝う」
鎮西八郎こと源為朝にまつわる神社としては、中区正木の闇之森八幡社がある。 尾頭橋の地名は、為朝の息子がこの地にやってきて尾頭(おかしら)を名乗ったことに由来するなど、為朝の伝承がいくつか残っていて、まったくの作り話とも思えない。 為朝があちこちで暴れ回り、保元の乱(1156年)に敗れて流刑された伊豆大島で討伐隊に攻められて自刃したのが1170年とされるから(1177年説もあり)、神社創建の1163年というのはちょっと辻褄が合わない。 あるいは、為朝が伊豆大島に流刑にされたとき、身内が名古屋のこの地にやってきて住みつき、神社を建てたという可能性はあるだろうか。 もしそうだとすれば、源氏の一族が自分たちの守護神である八幡神を祀ったのは不思議ではない。ただ、そのときは応神天皇という意識ではなく、あくまでも八幡神だったと思われる。
『愛知縣神社名鑑』がいう品陀別命の霊夢によってスサノオ(牛頭天王)が「神城に入御」したというのはどういうことなのだろう。 神社に伝わる話として、境内にある池は牛頭天王がこの地を訪れたときに足を洗ったということから足洗池と呼ばれるようになったというのがある。 その日を例祭日(旧暦6月15日)として、毎年5月には足洗池祭が行われているという。 『愛知縣神社名鑑』は、その祭りの様子を「著名な祭礼とて境内溢るばかりなりと」と記している。 7月の天王祭では、「牛頭天王車」と名付けられた山車とからくり人形4体が、熱田区切戸の斎宮社(地図)まで往復するそうだ。 この山車は北区清水の八王子神社から譲り受けたもので、江戸時代後期の1836年頃に作られたものと考えられている。
江戸時代のここは牛立村(うしだてむら)だった。 江戸時代の書の牛立村の項はそれぞれこうなっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社 弐ヶ所 内 八幡 斎宮司 此社内ニ天王・観音堂有 社内壱反六畝廿四歩 前々除 当村祢宜 市左衛門持分」
『尾張徇行記』(1822年) 「八幡社 斎宮司社 界内一反六畝二十四歩前々除 府志曰、八幡祠三狐神祠倶在牛立村 庄屋書上帳ニ、村控観音堂一宇界内ニ八幡天王社アリ 熱田社家菊田采女書上帳ニ、八万社内一反七畝十五歩外畠八畝、斎宮神社内二畝十二歩共ニ御除地」
『尾張志』(1844年) 八幡社 天王ノ社 八幡社の社の境内にあり村の氏神なり社人菊田隼之助と云 サグジノ社 氏神より南の方にあり猿田彦神天鈿女神を祭るといふ」
江戸時代からすでに天王社は八幡社の境内に祀られていて、二社で村の氏神となっていたことが分かる。 切戸町にある斎宮社は現住所は熱田区でも、もともと牛立村の村内にあった。 西隣の四門寺(しもんじ)は、江戸時代まで八幡社・天王社の神宮寺で尼寺だった。 少し西北にある尾頭山願興寺(地図)は源為朝が古渡に創建したとされる古刹だ。それは本当ではないだろうけど、八幡社にしても願興寺にしても源為朝の一族が関わった可能性はある。
牛立村について津田正生は『尾張国地名考』の中でこう書いている。 「牛立村(うしたて) 地名いまだ考へず或潮立(うしほたち)より移れるか」 潮(うしお)が立つことから潮立、牛立に転じたのではないかとしつつ、よくは分からないとしている。 古くから天王社があったとするなら、祭神の牛頭天王の牛から村名がつけられたという可能性はないだろうか。 古代、このあたりは海だったから潮立としたというのも考えられなくはないのだけど、周囲に海にまつわる地名がほとんど見当たらないことからして、可能性は低いように思う。 そもそも海といっても干拓で陸地化できるような遠浅の海で、潮が立つというイメージではない。
社殿のスタイルが少し変わっている。拝殿があって、その奥に弊殿があるのだけど、それが幅広になっている。そして、本殿に当たるのが中央の八幡社なのに、左にある天王社の社の方が大きい。右には小さめの秋葉社が並んでいる。 額がかかっている中央部は、八幡社と天王社の間になっている。これは何か意図した配置なのだろうか。 社殿の大きさを見ても、天王社を八幡社以上に扱っているのが見てとれる。 秋葉社がいつからここにあるのかは分からない。
5月は天王社の足洗池祭の他に八幡社の豊年祭も行われる。 例祭では湯取神事が執り行われているという。 釜の湯をふりかける役は巫女さんがやっているのだろうか。 東区筒井町の天王祭で引き出される湯取車(ゆとりぐるま)は、万治元年(1658年)に作られた東照宮祭礼車で、からくり人形が巫女の湯取神事を演じることから名付けられた。 名古屋市内の神社で今でも湯取神事を行っているところは多くない。
創建にまつわるいきさつに不明な点が多いものの、古い歴史と伝統を持つ神社には違いないようだ。境内や社殿の様子からもそれは伝わってくる。 なにより今の時代に牛頭天王を祀っていると言い切っている姿勢がいい。 この神社、なかなか好きだなと思った。 できることならば、足洗池に水を入れて復活させてもらえるとなおいいのだけど。
作成日 2017.7.4(最終更新日 2019.5.24)
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