ちょっと捉えどころのない変わった稲荷神社だ。 規模でいうと守山区の生玉稲荷神社とこの豊藤稲荷神社が名古屋で大きな稲荷神社の代表といっていい。しかし、単なる稲荷神社とは思えないところがある。 創建は江戸時代末の1851年で、山城国伏見稲荷神社(伏見稲荷大社/web)から勧請したという。 ただし、奉斎が始まったのは和銅年間(708年-715年)という話がある。 『愛知縣神社名鑑』の「特殊な稲荷信仰に支えられ」という記述が気になるところだ。 現在の主祭神はウカノミタマ(倉稲魂命)となっているけど、本来は豊藤大明神を祀っていたという。 拝殿前にはキツネではなく普通の神社のように狛犬が置かれているのも、ちょっと不思議な感じがする。 祭神の顔ぶれも稲荷社としては変わっていて、サルタヒコ、オオクニヌシ、コトシロヌシとなっている。これらの神が祀られるようになった経緯はよく分からない。
神社は小高い山の上にあって、鳥居から南方面を眺めると眼下に街並みが広がっている。 現在の町名は作の山町(さくのやまちょう)で、作の山は字名から来ている。江戸時代中期の1770年の『本殿新田名寄張』に「作之山」とある。かつては朝日山と呼ばれていた 桶狭間の戦いのとき、信長軍はこの朝日山の麓に集結したという言い伝えが残っている。すぐ南には善照寺砦と中島砦があって、その進軍ルートに近いから、実際あり得る話だ。進軍途中に砦の中にわざわざ二千もの兵を入れる意味はなく、適当な広場があればそこに集まったという方が自然だ。 少し北にある新海池(にいのみいけ)は江戸時代前期の1634年に農業用の溜め池として作られたものだ。近年、公園として整備された。 新海池の西で大塚、赤塚といった小型の円墳が見つかっている他、鉾ノ木貝塚も知られており、早くから人が暮らす土地だったことが分かっている。 朝日山周辺は戦前までは完全な農村地帯で、見渡す限り田んぼと畑しかなかったという。神社は森の中にある離れた一軒家のような様相だったとか。戦後になって開発が進み、今ではすっかり町になった。
明治18年(1885年)に火事で社殿を焼失している。 昭和34年(1959年)の伊勢湾台風でも大きな被害を受けた。 そのとき再建に奔走した宮司さんが現在も80代で現役とのことだ。
もともとの祭神の豊藤大明神の豊藤とは何なのか。 拝殿脇にある奥の院に続く鳥居前に一本の山藤がある。曲がりくねった幹の様子が龍に似ているということで、ふじ龍と呼ばれている。植えたものではなく、このあたりが雑木林だった頃からの自生の木だそうだ。豊藤の名前がこの藤の木に関係があるのかどうかは分からない。
境内社もちょっと変わっていて、水神社と天宇受賣社が並んでいる。 水神社では高龗神(たかおかみのかみ)を祀っている。 京都の貴船神社(web)の祭神が高龗神だから、そこから勧請しただろうか。 水の神であり、闇龗神(くらおかみのかみ)とは同一神、もしくは対の神とされ、龗神(おかみのかみ)はその総称とされる。 『古事記』と『日本書紀』ではいろいろ違いがあるのだけど、イザナギがカグツチを斬ったときに生じた神だ。 『古事記』でいうと、オオクニヌシは龗神の孫ということになる。 天宇受賣社ではアメノウズメ(天宇受賣命/天鈿女命)を祀る。 天孫降臨の際にニニギに従ったひとりで、アマテラスの天の岩戸隠れのときに踊り、サルタヒコの妻になったとされる女神だ。 奥藤社では神狐の道祖神が祀られていたり、白蛇社があったりで、なかなかのワンダーランドとなっている。
創祀が和銅年間(708年-715年)という言い伝えがあることや、近くから遺跡や古墳が見つかっていることからすると、神社の起源はかなり古い可能性がある。江戸時代末に稲荷社を勧請する以前に元になる神社があったかもしれない。サルタヒコやオオクニヌシ、コトシロヌシを祀るとしているのはそのときの名残ではないか。あるいは、明治以降に近くにあった神社を合祀した結果だろうか。 いろいろ分からないことが多い稲荷社だけど気になる神社だ。
作成日 2017.5.3(最終更新日 2019.3.31)
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