現在の稲永(いなえい)は、かつて稲永新田と呼ばれていた場所で、昭和15年(1940年)に成立した。 稲永新田は、江戸時代に干拓で築造された稲富新田と永徳新田が明治9年に合併してできた。稲富と永徳のそれぞれ一字を合体させて名づけられた。 神明社があるのは稲富新田だったところで、北の熱田前新田との堺の堤防下に当たる。堤に沿って民家が並んでいた。 稲富新田は1820年(文政3年)に熱田の粟田兵部たちが開発した干拓新田だ。ただ、実際には名古屋の豪商、内海屋(内田家)が資金を出したといわれている。 稲富は当初、稲留だったという。 永徳新田は1836年(文政9年)に熱田の神官、大喜下総守が開発したとされている。こちらも実質的には内海屋が行ったようだ。 熱田社の神官や神宮寺の名前を出すと藩の許可が下りやすかったため、名義貸しのようなことが行われていた。神宮寺新田などもそうだ。
稲富新田の開発が1820年だから、神社の創建もその頃と考えられるのだけど、建てられたのは1853年(嘉永6年)という話がある。 『尾張志』(1844年)を見ると「いなりの社 稲富新田にあり」とあるだけで、神明社はない。1844年にはまだ神明社は建っていなかったということか。 この稲荷社がどうなったのかよく分からない。稲富新田だった場所に現在、稲荷社はないはずだ。廃社になったか合祀されたか他に移されたか。 安政年間(1855-1860年)の暴風雨と高潮で稲富新田の堤が決壊し、資金難に陥った内海屋は修復ができず、10年以上も田んぼは放置され海水に浸かっていた。その後、内海屋は破産に追い込まれた。 1866年(慶応2年)に岐阜の投資家、渡辺甚吉らが資金を出して堤は修繕されたものの、明治初期は作物が育たず、荒れ地となるに任せ、永徳新田と合併して稲永新田となった。
神社の創建が幕末として、明治前期にかけてどうなっていたのだろうか。稲富新田の農民達は集落を離れて他に移ったのか、ここに住みながら他の田んぼで小作人をしていたのか。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、鳥居マークは確認できない。南は農地になっているから、この頃には田んぼも復活しただろうか。 1920年(大正9年)の地図から鳥居マークが現れ、その後、場所は移っていない。すぐ東南に稲永遊廓ができている(詳しくは錦神社を参照)。 1932年(昭和7年)を見るとすぐ北に鉄道の線路がある。稲永新田に市電が通ったのは昭和16年だから、それとは別の路線のようだ。 稲永新田の東に中部共同火力発電会社(中部電力)が名港発電所を建てたのが昭和14年。 戦時中は東南海地震(昭和19年)や空襲でこのあたり一体は壊滅的な被害を受けた。 戦後は稲永東公園あたりに木造住宅が建ち始めるも、昭和34年の伊勢湾台風で大きな犠牲を出したため、鉄筋コンクリートで建て直した。市営稲永荘などがそうだ。 現在はすっかり住宅地となっている。
『愛知県神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。稲富新田と永徳新田が合併して明治9年稲永新田に改称した。何れも文化、文政(1804-1829)に開発した新田で村内鎮護のため産土神として奉斎した。明治5年7月、村社に列格する。昭和20年4月、空襲により被害、昭和22年本殿を復旧、昭和34年伊勢湾台風に再度被災、昭和35年本殿復興す。昭和61年5月4日、社殿、社務所を造営した」
境内社として秋葉社と龍神社がある。 龍神社の祭神は水波能賣神(ミズハノメ)だという。 名前の通り水の神様で、灌漑用水の神や雨乞い、止雨の神として祀られた。ただし、単独で祀られることはあまりなく、主祭神の配祀神となっているところが多い。 これは創建時からなのか、明治以降のことなのか、ちょっと分からない。 5月5日には春祭りとして龍神際が行われる。 10月の秋祭りでは子供たちが獅子頭を持って町内を練り歩くという。 境内にあるふたつの地蔵堂の片方は六地蔵で、もう一方は子守地蔵と呼ばれている。 文政3年(1820年)ごろに子供たちの守護を願って作られたもので、安政の台風で流されてしまったため、あらたに同じ地蔵をもう一体作ったところ、吉田新助という人物に十一屋川の川底に埋まっているという夢のお告げがあったため村人と一緒に掘ってみたところ、流された地蔵が実際に見つかったのだという。 今も新旧二体の地蔵が堂の中に並んでいる。
作成日 2018.7.10(最終更新日 2019.7.22)
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