小幡白山神社

やや複雑な変遷を辿った白山神社

小幡白山神社鳥居と境内

読み方 おばた-はくさん-じんじゃ
所在地 名古屋市守山区小幡中1-13-8 地図
創建年 不明(伝600年頃とも/飛鳥時代前期)
社格等 村社・五等級
祭神

伊邪那美命(いざなみのみこと)
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
大己尊命(おおなむちのみこと)
火具土命(かぐつちのみこと)
大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
豊受姫命(とようけひめのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)

 アクセス

・名鉄瀬戸線「小幡駅」から徒歩約10分
・駐車場 あり

webサイト  
オススメ度

 守山区内には白山神社が3社ある。それぞれを区別するために、小幡白山神社、市場白山神社、西城白山神社としている。牛牧にも白山神社の参集殿があるようだけど一般的な神社とは違うようなので勘定に入れない。
 いつの時代か、このあたり一帯で白山神社が流行ったことがあったのだろう。それぞれすべてが最初から白山神社だったとは思わない。
 小幡白山神社は、名鉄瀬戸線小幡駅からほど近い瀬戸街道沿いを少し入ったところにある。
 瀬戸街道は江戸時代には水野街道と呼ばれていた。尾張藩初代藩主の義直が瀬戸の水野方面に鷹狩りなどをするため頻繁に訪れたため整備された道だ。その途中、大森で桶を担いだ力持ちの農家の娘を見初めて側室とし、生まれた子供が二代藩主・光友になったというエピソードも残る(実際は大森出身の女中だったという話だ)。
 義直が遺言で瀬戸の定光寺地図)を墓所としたため、尾張藩の歴代藩主がこの道を通って瀬戸へ通った。そこから殿様街道とも呼ばれるようになった。
 それ以前に小幡というのは早くから開けた土地だった。北の庄内川と南の矢田川に挟まれた台地で、古代、すぐ西側は入り海だった。
 神社の北800メートルほどのところで牛牧遺跡(地図)と呼ばれる縄文時代の集落跡が見つかっている。出土品から古墳時代まで長く使われた集落だったことが分かっている。
  西600メートルほどのところにある瓢箪山古墳(地図)は5世紀末から6世紀初頭に造られと考えられている大型の前方後円墳で、西2キロほどのところには4世紀後半とされる100メートル級の守山白山古墳(地図)がある。
 その他にも古墳が点在し、小幡白山神社は小幡南島古墳と呼ばれる直径33メートルの円墳の上に乗っている。築造されたのは6世紀頃というだけで詳しいことは分かっていない。
 これらのことを考え合わせると、小幡には古くから人が住み、大型古墳を造れるだけの権力を持った豪族がいたということを意味する。古い神社の一つや二つあっても当然といえば当然だ。
 ただ、小幡白山神社については少し複雑な経緯があり、分からないことが多い。

 明治も終わろうかという明治43年(1910年)に、東城にあった白山神社、常燈の神明社、北屋敷の諏訪社を、現在の場所にあった愛宕社のところに持ってきて合祀し、名称を白山神社とした。
 ここからさかのぼって考える方が分かりやすいと思う。
 神社合祀政策の勅令が出たのが明治39年(1906年)のことで、これによって小さな神社は軒並み合祀されて一気に数を激減させることになる。ただ、勅令から4年後というのは少しタイムラグがある。これをどう捉えるべきなのか。それぞれの神社が抵抗したということだろうか。
 神社の格の問題として、元・白山神社は明治5年(1872年)に村社になっているのに、どうして無格社の愛宕神社のところに持ってきたのか。元・白山神社があった東城というのがどういう場所だったのか分からないのだけど、敷地の問題として愛宕社のあった場所の方が適当という判断だったのか。
 元・白山社にはこんな伝承が伝わっている。
 平安時代に編さんされた古代氏族名鑑の『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、600年頃に欽明天皇の皇子・小墾田王(おはるだおう)がこの地にやって来て神社を創建した、というものだ。神社の由緒書きでもそう紹介している。
 ただ、『愛知縣神社名鑑』の説明は少し違っている。
「欽明天皇の皇子の小墾田王がこの地に住んでいたので、村名を小治田といっていたのが、縮まって小幡になった。そして、小墾田王の子孫を産土神として祀ったと伝える」とある。
 江戸時代に書かれた『尾張志』にはこうある。
「小幡むらにありて白山愛宕八幡を合せ祭る」
「張州府志(『尾張志』の前に編まれた藩史)には神名帳の多奈波太神社ではないかとしているけどそれは違う」と言い、
「当村には松林多し 村民小社を建てて鎮守とし皆山神と号している むかし小治田の連等が住みし里なれば其祖神を祭りし古社なるへし」としている。
 これらの話の方が説得力があるし、納得できる。
 小墾田王というのは欽明天皇の系図にはない名前だ。しかしながら、小治田の連といった有力豪族がいたであろうことは古墳からも推測できる。尾張氏の直系ではないにしても、傍流か、どこかの時点で尾張氏の配下に入った一族だった可能性が高い。小治田は尾張田と表記したともいう。
 それらの人たちが氏神を祀ったというのであれば、白山神社ではなかったはずだ。どんな神を祀るどういう名前の神社だったかは分からないとしても、白山の神を祀る理由がない。
 創建年代をいつ頃と考えるかは難しいところだ。小墾田王云々ということであれば600年代前半もあり得るだろうけど、もう少し後のことのようにも思う。江戸時代から見て古社というのであれば少なくとも鎌倉以前ということにはなるだろうか。
 元からこの場所にあった愛宕神社に関しても詳しいことは伝わっていない。古墳と無関係とは思えないけど、もともと古墳の上には乗っていなかったんじゃないだろうか。
 現在、古墳の上に神社が乗っているパターンはわりとあるのだけど、これは古い時代のことではないと考えられている。
 というのも、神社は死を穢れ(ケガレ)として嫌うのに(死=汚れではない)、人の墓の上に神社を建てるなんてことは本来はありえないことだからだ。古墳が墓としての生々しさみたいなものが薄まった鎌倉、室町以降のことではないだろうか。
 古代の人たちにとって古墳がどういうものであったのかは、あらためて考えなければいけない問題だ。古墳と集落と神社の位置関係や距離感といったものもずっと気になっている。

 祭神については合祀の関係でやや混乱が生じているようだ。
 神社にある由緒書きではイザナミ(伊邪那美命)、カグツチ(火具土命)、ククリヒメ(菊理媛命)、アマテラス(天照大皇神)、タケミナカタ(建御名方命)になっているのに対して、『愛知縣神社名鑑』では、イザナミ、アメノオシホミミ(天忍穂耳命)、オオナムチ(大己尊命)、カグツチ、オオヒルメノムチ、アマテラス、トヨウケヒメ、タケミナカタになっている。
 この違いはけっこう大きくて、元・白山神社の由来が見えてくるものでもある。
 諏訪社、神明社、愛宕社を合祀したから、タケミナカタとアマテラス、トヨウケヒメ、カグツチは問題ないので横に置いておく。
 ポイントは、『神社名鑑』では白山の神であるククリヒメが抜け落ちていることと、アメノオシホミミが入っていることだ。
 白山神社の総本社は加賀国一宮(石川県)の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)だ。主祭神をククリヒメ(白山比咩大神)として、イザナギ、イザナミと一緒に祀るのが全国の白山神社の基本形となっている。
 それとは別に白山信仰というものがある。
 717年に泰澄(たいちょう)が白山に登り、妙理大菩薩を感得して平泉寺(へいせんじ)を建立したことに始まる。
 その後、白山信仰は神仏習合の歴史を辿り、明治の神仏分離令によって廃寺になったり無理矢理神社にさせられたりした。平泉寺も神社にさせられたパターンで、平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)として現在も続いている。この祭神がイザナミ(伊奘冊尊)であり、左右にアメノオシホミミ(天忍穂耳尊)とオオナムチ(大己貴尊)を祀っている。
 つまりは、元・白山神社は神道系の白山神社ではなく仏教系の白山神社から勧請したことを意味する。それは早くても718年以降ということだ。
 神社の由緒書きにククリヒメが入れられているのは、白山神社なのにククリヒメがいないのはおかしいということであとから付け加えたからではないだろうか。
 小墾田王や小治田連の子孫が最初に祀ったのが、どんな神だったのか分からないままだ。
 神明社はおそらく江戸時代だろうけど、諏訪社については少し気になる。これは案外古い神社だったかもしれない。
 愛宕神社と古墳の関係も引っかかるところではあるのだけど、今のところここらへんが行き止まりということになりそうだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

小幡白山神社へ行く

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