津賀田神社

若宮に誰を祀ったのか

津賀田神社

読み方 つがた-じんじゃ
所在地 名古屋市瑞穂区津賀田町3丁目4 地図
創建年 不明
社格等 郷社・八等級
祭神 仁徳天皇(にんとくてんのう)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アクセス

・地下鉄桜通線「瑞穂運動場西駅」から徒歩約12分
・駐車場 なし(普段は閉じている)

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オススメ度

 いきなり結論めいたことを書いてしまうと、ここは若宮で、古墳の被葬者、もしくは塚に葬った人間を祀るために建てられた神社だと私は考えている。
 結論ありきでは真実を見失う危険性があるのだけど、少なくとももともとここは八幡社ではないことは確かだと思う。
 そう結論づけるにはいくつかの根拠がある。

 まず、読み方と表記だ。これが幾通りもあって一定しない。
 愛知県神社庁への登録としては、津賀田神社として「つがた」と読ませている。これはおそらく神社側の意向だと思う。
『瑞穂区誌』は、津賀田を「つかた」と濁らずフリガナを振っている。
 平安時代末頃に成立したとされる『国内神名帳』では、写本によって違いがあり、墓田天神として「つかた」としていたり、朱で横に「津賀」と直したりしている。
 現在私が見ることができる『国内神名帳』は、国府宮威徳院蔵本の写本と犬山針綱神社神主赤堀長門守蔵本の写本とが合冊された江戸時代に写されたものだ。これ以外にも多くの写本があったと考えられている。
 江戸時代の『尾張志』では墓田天神社として「つかだ」とフリガナを振り、『尾張名所図会』では津賀田社(つかたのやしろ)と濁らず、絵図には塚田神社とある。
 このように、江戸期に至っても表記と読み方が定まっていなかったようだ。
 共通しているのは、「墓」、「塚」という字が当てられているということだ。これはどちらもお墓を意味する言葉だ。
 津賀田を「つがた」と読むと仮定するなら、津潟から転じたという考え方もできる。このあたりは瑞穂台地の南端で、古くはすぐ南が海だったから充分考えられる。
 それと同時に、古墳や塚が多い土地柄という特徴もある。
 周囲にはたくさんの古墳があったことが分かっており、弥生時代もしくはそれ以前から人が暮らす土地だった。正式な調査は行われていないものの、津賀田神社も前方後円墳の上に乗っているともいわれる。
 何々塚と呼ばれるものも多い。蛇塚や剣塚、師高塚、仙人塚など、伝承や地名として残っている。
 師高塚というのは藤原師高(ふじわらのもろたか)のものとされるもので、平安時代後期の1177年に比叡山末寺の白山涌泉寺と紛争を起こした責任を取らされて尾張国の井戸田に流罪となり、この地で討たれたといわれる。
 兄弟の師平・師親の塚とされるものも『尾張名所図会』に描かれている。
 その藤原師高兄弟に続いて藤原師長(ふじわらのもろなが)も井戸田に流されてきた。1179年の治承三年の政変で平清盛に敗れ、尾張国に流罪となったのだ。
 藤原師長は当時、太政大臣という高い地位についていた大物だ。その流罪先として選ばれたのが尾張国井戸田であったということは何か意味があったに違いない。
 師長は翌1180年に許されて京に戻るのだけど、一日も早く戻れるように津賀田神社に願掛けに訪れていたという話も伝わっている。

 平安時代末成立とされる『国内神名帳』に載っていることや、師長のエピソードからして、平安時代にはすでにあったと考えていい。
 問題はどこまでさかのぼれるかだ。
 古い時代に若宮と呼ばれていたのは間違いない。津賀田神社の神宮寺だった亀井山龍泉寺(りょうせんじ)に大般若経の古い写本(1374年奉納)が600巻伝わっており(現存は一部のみ)、その奥書きに井戸田郷若宮とあることから、少なくとも室町時代(南北朝時代)にはそう呼ばれていたことが分かる。
 そのあたりのことを『尾張志』や『尾張名所図会』でも書いている。
 今(江戸時代後期)は若宮八幡や八幡と称しているけどもともとは若宮と呼んでいた神社で、鎌倉以降に八幡神が流行って、若宮といえば若宮八幡だろうということで若宮八幡になってしまったと説明する。
 さらに源頼朝が井戸田村の片垂(かただり)というところの生まれで、龍泉寺門前にあった名水と名高い亀井水を産湯に使ったという言い伝えも紹介している。
 ただし、頼朝は熱田大宮司藤原季範の娘で、熱田の旗屋村にあった誓願尼寺で生まれたという話もあってはっきりしないとする。
『尾張名所図会』では、鎌倉の鶴岡八幡宮はこの若宮(津賀田神社)から勧請して建てたなどという話も書いている。ただ、『東鑑』にはそんなことは書かれていないから実際のところは不明としている。
 若宮と呼ばれるようになったのがいつからなのかも重要な鍵となる。

 若宮というのは、親神を祀る神社に対してその子供の神を祀ることでそう呼ばれるようになったというのがひとつある。八幡社の神が応神天皇だから、若宮八幡ではその子供の仁徳天皇を祀るというのがそうだ。津賀田神社の祭神もそうなっている(アマテラスを祀っているのは明治41年に濱神明社を合祀したため)。
 それとは別に、皇族の幼い皇子を若宮と呼ぶこともある。
 さらに、不慮の死を遂げた人間の祟りを恐れて祀った宮も若宮という。平安時代以降に建てられた古い若宮はその例が多いとされる。
 若宮=津賀田神社が前方後円墳の上に建てられていて、周囲は古墳や塚がたくさんあるとなれば、やはりここは古墳か塚に眠る人間を祀った社として出発したと考えるのが自然ではないのか。
 古墳はおそらく5世紀末か6世紀だろうけど、平安時代の人たちがその被葬者を知っていたかどうか。
 あるいは平安時代に死去した人間を祀るために建てたか。
 尾張の『国内神名帳』に載るとはいえ、『延喜式』神名帳には載っていない。927年当時に存在していたとしても、官社としては認められていなかったということだ。
 名古屋総鎮守の若宮八幡社も天武天皇期(673-686年)または大宝年間(701-704年)創建とされる古い社でありながら『延喜式』には載っていない。この名古屋の若宮と井戸田の若宮は関係があるのではないかという指摘もある。
 津賀田神社が後に郷社となるまで大きな神社となったことを考えると、本来の祭神もそれなりの大物だった可能性が高そうだ。
 瑞穂台地の古墳の被葬者についてはよく分からない。尾張氏とどの程度関係があったのか。尾張氏の古い本拠地だったという考えもあるようだけど、それもなくはないか。

 この神社を訪れて、ん? とか、あれ? と思ったという人がいたとしたら、それはたぶん気のせいではない。
 外観はとても立派で境内も広くて圧倒されるのだけど、境内を歩いてみると、なんとも寂しい感じがして仕方がなかった。なんだろう、この人気のなさはと思う。境内を掃除していた神社の方は挨拶しても感じがよかったし、参拝者もいたのだけど、変な静けさが気になった。
 飲酒、飲食はもちろん禁止、ペット禁止、ベビーカー禁止、撮影も禁止と、とにかく禁止事項が多い(なので表の道路から撮影しただけで終わった)。
 神職次第で神社は良くも悪くもなる例をいろいろ見てきて知っているからそのせいかと思ったのだけど、それよりもこの神社の成立と祀られている祭神によるものなのかもしれないと思い直した。
 この人を寄せ付けない感じは普通じゃない。厳かとか、驕っているとかではなく、もっと違う波動の何かだ。悲しみに満ちているようにも感じられた。
 触らぬ神に祟りなしという言葉もある。少なくとも、恋愛成就の願い事などをしにいく神社とは思えない。
 氏子の戸数も多いし、氏子さんもたくさんいるのだろうけど、よそ者はあまり関わらない方がいいかもしれない。
 ただ、せっかくいい神社になり得るのにもったいないなとは思った。神職さんがもっと心を開いて広く人々を受け入れるようにすれば変わる気もするのだけどどうだろう。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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