金山駅西南、堀川沿いの道路脇に小さな社が二社並んでいる。天王社と秋葉社のようだ。 堀川の左岸(東側)は熱田台地の上になる。位置的には名古屋城と南の熱田のちょうど中間くらいで、北の尾頭橋と南の住吉橋の間だ。住吉橋のすぐ東には住吉神社(地図)がある。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社のあるあたりは民家が少なく、堀川を挟んで西にちょっとした集落がある。 戦前には建物がびっしり建ち並んでいたのが戦後の1947年の地図を見ると空白地が目立つ。熱田のこのあたりも空襲でかなり被害を受けたようだ。 新尾頭は昭和55年(1980年)に尾頭町、新尾頭町、花町、五本松の各一部より成立した。熱田町と呼ばれていた時代もある。
神社についての情報がまったくないので、いつ誰がここに建てたのかは分からない。尾張藩は城下の火除けと疫病除けのために秋葉権現と天王社を祀ることを奨励した。もしかするとこの2社も江戸期にさかのぼるかもしれない。一方で昭和に入ってからの新しいものという可能性もある。 隣は山春材木店で、この材木店の敷地のようだから、主が祀ったものかもしれない。 今でこそ堀川沿いの材木店は少なくなってしまったけれど、かつて白鳥一帯は材木の一大集積地だった。
堀川は名古屋城築城の際に人工的に掘られた川だ。徳川家康による天下普請で、福島正則が命じられて工事に当たった。 かつて堀川は名古屋城の石垣などを運ぶために掘られたと考えられていたのだけど、どうやらそうではなかったようだ。 というのも、名古屋城築城は1610年の1月に工事が始まり、8月には加藤清正が天守台を完成させている。続いて12月までには本丸、二之丸、西之丸、御深井丸の石垣の工事が終わっていた。それに対して、堀川は1610年から掘り始めて完成したのは1611年の6月だ。掘っている途中の川で石垣を運ぶことはできない。 堀川の目的は、名古屋城が完成した後に熱田湊と名古屋城下の物流に使用するためだったと考えられる。 石垣は小牧や美濃、三河などから陸路と海路で運ばれ、船に乗せて運んだ石は熱田湊で陸揚げして、そこから陸送した。一部は中川(笈瀬川)を使って運んだと伝わっている。 運河神社とも呼ばれる中川区月島町の金刀比羅社(西宮神社)(地図)のあたりが運んできた石の石切場だったという話もある。 天守が完成するのは堀川ができた翌1612年なので、天守の木材などは堀川を使って運んだ可能性がある。
堀川が貯木場に選ばれたのはこうした歴史があったためで、白鳥貯木場は名古屋城築城の際の材木置き場が起源とされる。福島正則が大きな池を掘って貯木場とした。 1615年に木曽が尾張藩領になると、山で伐採された木材を木曽川や飛騨川で運び、熱田湊から堀川をさかのぼって白鳥の貯木場に集められた。そこに木材奉行が置かれ、木材の売買も行われていた。 堀川は海水と川の水が混ざる汽水で、ここに木を浸けておくとアクが抜けて品質の良い木材になった。 当初堀川の東側だけだった貯木場も江戸末期には両岸にびっしり材木が浮かぶようになった。 明治40年に名古屋港が開港すると外国からも木材が入ってくるようになり、堀川は材木で埋め尽くされるくらいになる。 しかし、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で高潮に運ばれた木材が町を襲って被害を拡大したことから、あらたに西部木材港を作ってそちらに移すことになった(昭和43年)。 それに伴い、堀川沿いの材木商も西部木材港(地図)に拠点を移すことになった。 平成元年(1989年)に白鳥で開催された世界デザイン博覧会は貯木場の跡地を利用して行われた。博覧会が終わった後、名古屋国際会議場(web)や白鳥庭園(web)などが作られた。
堀川は昔に比べてずいぶんきれいになった。近年はサムライクルーズ(web)と称して船も行き来するようになり、堀川の役割が変わりつつある。 堀川を掘らされた福島正則は、なんでオレがこんなことしなきゃいけないんだとぼやいていたら、加藤清正にそんなに文句があるなら国に帰って戦支度でもしておけと言われて黙ったというエピソードが伝わっている。 福島正則は尾張国海東郡(あま市)で生まれ、幼い頃から秀吉に仕えて数多くの武功を挙げた勇猛な武将だった。関ヶ原の戦いでは東軍として戦ったものの、家康を主君とは思っていなかっただろう。 関ヶ原の後、安芸・備後を与えられて広島城主となるも、1619年に広島城を勝手に修繕したことをとがめられ、所領を没収されてしまう。信濃の高井郡高井野邑に蟄居を命じられ、1624年に64歳で没した。 いろいろ本意ではないことは多かっただろうけど、堀川開削で名を残した。それでも、加藤清正ほど人気がないことをあの世でぼやいているかもしれない。
作成日 2018.7.20(最終更新日 2019.9.18)
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