瑞穂区は八幡社が多いところで、東栄町にあることから東栄八幡社とも呼ばれている。 創建は江戸時代前期の元禄年間(1688-1704年)ともいわれ、元禄十年(1697年)の棟札があるというからそれが創建の年かもしれない。 神社があるのは江戸時代、本願寺村から独立した人たちが住み始めたところで本願寺外新田と呼ばれていた。 始まりは、尾張藩士の寺尾土佐守の屋敷があった跡に15軒の家が建って住むようになったことがきっかけだった。以来、このあたりを十五軒屋ともいった。 寺尾土佐守というのは寺尾直政のことで、伊予松山出身の父・正俊が尾張藩初代藩主・徳川義直に仕えることになったことから直政も跡を継いで尾張藩士になった。 慶安3年(1650年)に藩主の義直が死去すると他の8人の藩士とともに殉死した。享年48。介錯は柳生兵助巌包(としかね)が務めたという。 ちなみに、柳生巌包は尾張藩の兵法指南役だった利厳の三男で、剣の才能があったため側室の子(母は島左近の娘)でありながら正室の子の兄・利方を差しおいて尾張新陰流を継いだ人物だ。 1650年に寺尾直政が殉死したあと、息子が跡を継いだのか、屋敷が村に明け渡されたのか、そのあたりの事情はよく分からないのだけど、元禄七年(1694年)に尾張藩の検地(縄入)が行われ、正式に本願寺外新田が誕生した。 15軒の村人たちが住み始めたのはその少し前ということになるだろうか。 神社の棟札が元禄十年(1697年)のものだから、本願寺外新田村の成立からほどなくして村の氏神として八幡社が建てられた可能性が高い。
『尾張徇行記』(1822年)に、「熱田社家・粟田宮部太夫支配」とある。 粟田宮部太夫というのは、熱田社の神職というか御師(おし)で、津賀田神社(つがたじんじゃ)を取り仕切っていたか、関わりがあった人物のようだ。 津賀田神社は瑞穂区では古い神社で、もともと若宮と称しており、墓田(つかた)天神ともいった。 後に若宮八幡として仁徳天皇を祀るようになったという流れだろう。その関係もあって本願寺外新田の氏神を八幡神としたのかもしれない。 御師(おし)というと伊勢の神宮(web)の御師(おんし)がよく知られているけど、地方の有力神社にもいて、全国を回って自分の神社を宣伝したり、参拝に訪れた人をもてなしたりしていた。その後、御師は組織的になり、神社版旅行代理業者のようになっていく。 この御師の存在によって神社は経済的に成り立っていた面があり、かなり力を持っていたとされる。 粟田宮部太夫はおそらく本願寺外新田の八幡社創建にも関わっていたのだろう。
境内社として秋葉社と津島社がある他、五色弁財天が祀られており、1月には祭礼が行われているという。 神社を出てすぐ西に東栄寺(真言宗豊山派)と馬頭観音がある。 馬頭観音はもともと塩付街道沿いあったものを移したものだ。 街道を行く人や馬の安全を願って街道沿いにたくさん建てられた。そこでは馬のための水が用意されていたりして馬と人の休憩所も兼ねていたようだ。今でも一部が残っている。 東栄町の町名は字名の東ノ割から来ているのだけど、塩付街道の東から栄えたことに由来するという説もある。
作成日 2017.9.8(最終更新日 2019.3.24)
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